高校時代、中学の頃からやっていたバレーボールを高校の同好会でも続けていたけれど、それも二年生の時には辞めてしまったので、時間だけはたっぷりあった。
高校、大学の一貫校だったので大学受験もしなくて良かったから尚更。
まだ飲み歩くには若すぎたし、盗んだバイクで海まで走るという度胸もなく、放課後は図書館に通うという優等生のような生活。
男子校でそんな軟弱な暮らしをしていると、今ならいじめに会いそうなものだけど、幸いすぐ後ろの席には応援団に所属していた留年中の強面の兄貴分が居て(テストの時に少し答案を見えるように身体を動かす事を条件に)仲良くしていたのでそんな事もなく、日々は何事もなく過ぎた。
(最も、後年その兄貴分は父親の後を継ぎ政治家となったが、ある収賄事件への関与を疑われて、取り調べ中に自ら命を経ってしまうのだが…)
そんな高校生時代に図書館で出会ったのが、白水社の『吉田秀和全集』だった。
まだ、クラシック音楽を聴きはじたばかりの僕にはわからない所も多かったけれど、文章に惹かれて、一巻一巻読み続けていった。
おそらく図書館にあった全巻を読了したと思う。
高校生の僕には、吉田秀和氏と丸谷才一氏は師匠であり、それは今に至るまで変わっていない。
後年、吉田氏の『セザンヌ物語』に感銘を受け、ある音楽評論家の子息の家で出会った絵画評論家にその話をした所、「あんな素人の書いたものなど…」と酷評され、「専門家とはなんと度量の狭い生き物であることか」とため息をついたこともあった。
あれからもう三十数年経ったけれど、吉田秀和氏の訃報に接した今日、あの午後の図書館で読んだ『吉田秀和全集』が、僕という人間の基礎になっているのだと改めて思う。
その基礎の上には、まだなんの花も咲いてはいないけれど、ささやかでも恩返しが出来れば良いのだが…
溜まった本を片付けながらふいにグレン・グールドの最後の録音である1982年のゴルトベルク変奏曲を聴きたくなった。
少し片付けもくたびれたので、何気なくネットでニュースを見ていて、吉田秀和氏の訃報に接した。
98歳。
最後まで現役だった。
吉田秀和氏と丸谷才一氏の二人を、僕は高校生の頃からひそかに師と仰いでいた。
つい先日も丸谷才一氏のエッセイを読みながら、師匠である二人が依然元気で執筆活動を続けていることに感謝しつつも、いつかはこの時が来る事を覚悟しなくてはいけないのだと思っていた矢先の訃報だった。
ここ数日無性にバッハが聴きたくなり、グールド最後のゴルトベルクの録音を聴いている最中にその訃報に接した事は、何だか偶然とは思えないものを感じてしまった。
その活動に深く感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りします。
ウッディー・アレンの新作『ミッドナイト・イン・パリ』を観る。
これは文句なしに楽しめる映画。
パリに来たハリウッドの売れっ子脚本家ギルが、ふとしたことから1920年代のパリにタイムスリップしてしまう。
そこにいたのは、フィッツジェラルド夫妻やヘミングウェイ、コール・ポーターの錚々たる芸術家達。
夜毎1920年代のパリを訪れ、ガートルード・スタインに自作の小説を批評してもらったり、ダリに出合ったり。
ピカソの恋人であるアドリアナと恋に落ちたギルは、更に時代を遡り、ベル・エポックの時代に行き、ロートレックや、ゴーギャン、ドガと出会う・・・
ストーリーはシンプルだけれど、パリの風景が美しいし、音楽も良い。
なにより、過去の芸術家達がいかにも本人らしく笑いが絶えない。
最後は、雨のパリでしゃれた出会いも用意されていて、余韻も良い。
ウッディー・アレンの作品の中では、僕には何と言っても『アニー・ホール』が最高。
他にも楽しい作品はたくさんあるけれど、この『ミッドナイト・イン・パリ』は、楽しいという点でベスト3に入る作品とみました。
お勧めです。
自らの中の生命力が低下していると感じる時、無性にバッハが聴きたくなる。
何故だろうか。
その抽象的で数学的な世界が、この世には秩序があるということを思い出させてくれるからだろうか。
確かに、バッハの音楽には、ロマン派の音楽のような温度はない。
しかし、そこには人間という小さな生き物の枠を超えた大きな世界の存在を感じさせる何かがある。
平均律の最初のパッセージ。
一見あんなに単純なメロディー進行なのに、聴いていると自然に呼吸が楽になるような気がする。
明るいとか暗いとかの二元法を超えた真理の顕在を感じる。
(他にこのような思いに駆られるのは、ルオーの描くキリスト像を観た時くらいだろうか)
バッハの宇宙に触れて、自分の心と体が地上から数センチ浮かんでいるような心持ちになる時、思わず「生きるとはバッハを聴くことである」と言いたくなる。
政治学者の原武史著『影の磁力』を、夜寝る前に少しずつ読んでいる。
著者は1962年生まれ。
ほぼ同世代である。
新聞記者として昭和天皇の崩御を取材し、その後「天皇制」への関心を深め学者となった。
鉄道についてのエッセイでも有名。
この本は、天皇、団地、鉄道などをテーマとした書評を中心としたエッセイ集であり、語り口も軽妙で読みやすい。
今週の『東京堂書店』では最も売れた本とのこと。
(僕も『東京堂』で購入した。)
著者の語る日本の戦後史の大きな分岐点である1960年代を、僕も生きてきた。
今や新入社員は平成生まれとなり、昭和30年代は、遥かノスタルジーの時代になった。
思えばあれから半世紀が経ったのだと、時の流れに改めて愕然としてしまう。
まさに、昭和は遠くなりにけり、であります。
気候の変動のせいか、どうも体調がシャキッとしない。
こんな時は本を読んでも、もひとつ入り込めない。
こんな時は音楽、それもバッハだと思い至り、以前購入していたミカ・ウ゛ァユリネンというフィンランドのアコーディオン奏者によるバッハを聴きはじめた。
アコーディオンによる、何とも哀愁を帯びたバッハのシャコンヌを聴いていると、北欧のひなびた港町を一人歩いているような気分になる。
曇り空の下、うつきながら歩き、ふと顔をあげると鴎が一羽、風に煽られるようにゆらゆらと飛んでいる。
ちらほらと雪が降りはじめ、コートの襟を立て急ぎ、行きつけの裏町のスタンドバーに立ち寄り、強いウイスキーをあおる。
窓の外の灰色の猫と目が合うが、挨拶を送るとふっと姿を消した。
北の国の風景には、アコーディオンによるバッハが良く似合う。
ちょうど今、金環日食たけなわで肉眼でも太陽が右上から欠けていくのがわかる。
いつもの通勤電車も空いているのは、皆自宅などで日食を眺めているせいか。
日食とは全く関係ないけれど、昨夜指揮者朝比奈隆の伝記『オーケストラは我なり』を読了した。
僕は朝比奈隆の演奏を実演でもレコードでも聴いた事がなかったので、最初はこの本も読むつもりはなかったけれど、昨日本屋でふと「読んでみようかな」と思い一気に読了した。
彼の音楽そのものよりも、その出生の謎やオーケストラ経営の苦難の道のり、政治家顔負けの活躍が多く語られている。
正規の音楽教育を受けず、阪急電車のサラリーマンから指揮者に転じ、晩年は数々の栄光に包まれたその生涯は、まさに波乱万丈。
しかし、その輝かしい成功の裏には多くの影の部分があったのだ。
まるで今まさに佳境に入った金環日食のように。
伊坂幸太郎原作の映画『ポテチ』は約1時間の作品ながら、そのユーモアとペーソスで出色の佳作となっていた。
この映画の成功の第一の要因はもちろん主演の天才濱田岳の演技によるものだけれど、ヒロインを演じた木村文乃に大きな可能性を感じた。
彼女はDoCoMoのCMで渡辺謙と共演していて、そこでは清楚な魅力を発揮しているけれど、この映画では少し弾けた女の子を好演している。
これからの活躍に期待です◎
今日は快晴。
自宅近くの公園ではお祭り。
この公園は元はビール工場だったので、お祭りの時は生ビールの屋台が出る。
このビールが工場直送の生ビールなので実に旨い。
つまみに焼き鳥とたこ焼きを買い、朝から一杯やっていると幸せな気分になる。
BGMはゴルトベルク変奏曲の弦楽三重奏版。
AMATI STRING TRIOという未知のトリオによる演奏だけれど、スッキリとした演奏で録音が鮮明で気持ち良い。
朝からほろ酔いで聴くゴルトベルクもまた格別の味わいがあります。
丸谷才一のエッセイ『人形のBWH』を読んでいたら、作家の身長についてのエッセイがあり、三島由紀夫の身長が162センチで、彼はこの事にコンプレックスを感じていて権力志向になり、軍隊を結成したのではないか(もちろん冗談だけど)と書いてあった。
その章の(注)にいろいろな作家の身長が記載されていて面白かった。
こんな風になりますよ。
漱石158センチ、鷗外161センチ。芥川龍之介は165センチ、啄木は158センチ、高村光太郎は177センチと長身。さらにラフカディオ・ハーンは156センチと小柄で、これが「彼が日本にシンパシィを感じ安住の地とした一因ではないか。」という説を紹介。
何だか一人一人が少し身近に感じられるようで面白い。