2010年 08月 15日
カラヤンへの詫び状
「カラヤンのように表面ばかり美しく磨いた演奏は、いわば素人向きの名曲コンサートのための演奏に過ぎない。」なんぞという論調で、高校生位からクラシック音楽に目覚めた僕は、最初の内こそ「そうかな?」なんて思っていたけれど、気が付けばイッパシのアンチ・カラヤンになっていて、「カラヤンのマーラー?そんな精神性のない演奏はマーラーじゃないよなあ。」なんてやっていた。
(このあたりの精神構造は、戦時中、「この戦争はひょっとして負けるんじゃないか?」と思っていた若者が、いつの間にか周囲の影響で、軍国少年になっていたのに似ているやも知れぬ。)
しかし、先日知人の自宅にCDを持ち寄り、久方ぶりの音楽鑑賞会をした際に、過日BSで放映されたカラヤンの生涯を描いたドキュメンタリーを見て、目から何枚もの鱗が落ちた。
貧しい家庭に育ち小さな音楽劇場から次第次第に中央に進出。
戦時中はナチスとの関係を疑われながら、ついに「帝王」と呼ばれるようになる指揮者の素顔は、僕が思っていた姿とは違っていた。
一見クールな彼の実像は、演奏者に完璧を求め音楽を磨きあげる独裁者のようでありながら、ガラガラ声で冗談を言う気のいいオヤジであり、二人の娘にスパゲッティを取り分けるよき父でもあった。
ワーグナーのオペラを演出する際は自ら剣を持ち立ち回り、ラブシーンではベッドに倒れこむ。
バーンスタインとは不仲が伝えられていたが、カラヤンの訪米の際にはバーンスタインは随分カラヤンのために尽力を尽くし、晩年二人が一緒に話していたのを知った周囲の人間に「何を話していたのか?」と聞かれ「老人同士、何処が痛いかという会話だ。」と答えて「いつか二人でウィーンフィルハーモニィを半分ずつ振りたいね。」とも語ったらしい。
晩年背中を痛めたために指揮台までたどり着くのに酷く時間がかかるため、団員に「蹴飛ばしてやりたい。」と陰口を叩かれるようになる指揮者の素顔は、颯爽と自家用飛行機を操縦していた人であるだけ、酷く孤独だ。
このドキュメンタリーを見た後どうしてもカラヤンの演奏が聴きたくなり、チャイコフスキー交響曲全集とマーラー交響曲五番を聴いているけれど、マーラーでは確かに隅々まで磨きあげられた客観的に美しい演奏は、例えばバーンスタインのような没入型の演奏とは違うけれど、随所(例えばマーラー五番一楽章のピチカートで演奏される部分など)に惻惻と迫るような寂しさを感じる箇所があり、胸が塞がるような想いに駆られる。
何も知らぬまま、簡単に「精神性がない」などと批判していた自分を恥ずかしく思い、カラヤンに詫び状を送りたい気持ちだ。
最も今頃彼は天国でバーンスタインと二人で、あのガラガラ声で、次回のウィーンフィルハーモニィとの演奏旅行について楽しく打ち合わせしていて、こちらの詫び状なんぞ読んでいる場合じゃないかも知れないけれど。
そんな僕らを知ってか知らぬか、「カラヤンが大好きです」、と公言して、憚らない人が居た。変人にさえ思えた。そして、そんな素直さはちょっと、鬱陶しく思えた。
結局、変人だったのは、どちらだったのか。どちらもか。