2013年 11月 22日
エドワード・W・サイードの『晩年のスタイル』を読み始める
タイトルからして、明らかに大江はこの本を読むことから件の小説を書いているわけで、それではまずこの本からと持ち帰り、数日前から読み始めた。
これがまた最初から極めて読みにくい文体で、数ページでやめてしまおうかと思ったけれど、良く考えれば最初のエッセイのテーマが「アドルノによる晩年のベートーヴェン論」だから読みやすいはすはないわけで、気を取り直して赤鉛筆を持ってゆっくりと読み直し始めた。
二度目は、最初からわからないものとあきらめて読み始めて、わかりそうな所だけ赤線を引くと作戦で臨んだところ、なんとか1ページに一つくらいはピンとくる文章があることに気づく。
30ページ程読み進めると、トーマス・マンの小説『ファウスト博士』の中のベートーヴェン論からの引用があり、(この内容についてはアドルノが助言している)ここは何とかわかるような気がした。
こんな文章。
「ベートーヴェンの芸術は、それ自身を超えて発展し、人びとの驚きの凝視のまさに眼前で、伝統という住み心地のよい領域から上昇し、個人的なもの以外まったくなにもない領域へー絶対的なもののなかで痛ましくも孤立する自我、聴覚喪失のために感覚からも孤立した自我の領域へ-と入り込んだのです。精神の領域の孤独な君主、いまや彼から発せられる身も凍る息に、同時代人の中でもっとも同調していた人びとさえもおびえ、こうしたかたちの意思疎通に唖然として立ちすくむしかなかったものの、そのメッセージすら、彼らには、ほんの時折、まさに例外的なときだけ、かろうじて理解できるにすぎなかったのです。」
このベートーヴェン論は何となくは、わかる気がする。
なかなか手強い本ですが、少しずつ読み進めたいと思います。
赤鉛筆作戦やってみるか。
確かに大江氏の世界は難解本、この方やダンテや・・・、トーマス・マンは比較的読める方です。このベートーヴェン論拝見して、最近人間研究^^に凝っていまして、あらためてベートーヴェンの個の凄さが読みとれます。
たまにはこんなゴツゴツした本に挑むのも新鮮です。内容は1割も理解出来ませんが(>_<)