2014年 01月 02日
年末から年始にかけて、言葉そして文章について考える~多和田葉子『言葉と歩く日記』のこと~
ようやく読み終えたのが多和田葉子著『言葉と歩く日記』(岩波新書)。
これは、文章や言葉について深く考えさせてくれる良いエッセイだった。
昨年はレポートを何枚か書いたので、文章について何かと考えることが多かったけれど、レポートを書くときは極力一つの文章を短くと指導される。
確かに論文では、それが必要だろう。
しかし、どうも僕の文章はややもすると長くなり勝ちで、つまりはそういう迷路のような、行きつ戻りつ、躊躇い立ち止まり、時には迷路に迷い混むような文章が好きなのは性分なのだろう。
(吉田健一の文章が好きなのはおそらくそのせいだ。)
だからずっとレポートを書いているとストレスがたまり、blogではその反動で長く比喩の多い文章を書くことが多いようだ。
この本には、トーマス・マンの『魔の山』の一節が、多和田氏の訳で載っていて、これは(一文が長く)とても僕好みの文章だ。
「十月が始まった。新しい月がいつも始まってきたのと同じように、-その始まり方自体は全く遠慮がちで物音一つ立てない、兆しも目印もない、静かに忍び寄るような、つまり言ってみれば、よほど規則的な生活をしている意識でなければとり逃がしてしまうようなものだった。本当は時間というものに節目はなく、月の始めや年の始めに稲妻が光り雷が落ちるわけでもなく、世紀のかわり目にさえ、花火をあげ鐘を鳴らすのは人間くらいのものである。」
こうして、新しい年の始めに一人部屋でトーマス・マンの文章を引用している時には、世間の雑踏とから騒ぎから離れて心穏やかな気持ちを取り戻すことが出来るようだ。
友人から薦められた多和田葉子の『言葉と歩く日記』(岩波新書)は、とても面白かった。ちょうどその前に、川口マーン恵美の『ドイツで、日本と東アジアはどう報じられているか?』(祥伝社新書)を読んで退屈していたところなので、こちらの視点の高さと深さに、ようやっと安堵した。 欧州に住みながら日本や日本語のことを考える。自らの深き思索に身をゆだねる悦楽。こういうことが他国に住むことでしか得られない素晴らしさだと思う。 “人称代名詞と一口に言っても、一人称と三人称の間には、根本的違いがある。「ich」と...... more
やはり。お楽しみ下さい。