2014年 05月 06日
見ることと観ること
興味を持つと言っても、近所のお茶屋さんから安い茶碗と茶筅・茶杓を買ってきて、これまた一番安いお抹茶を全くの自己流でたてて飲んでいるだけである。
それでも不思議なもので、気分だけはお茶をたてているような錯覚におそわれるから不思議である。
そうなると茶碗や掛け軸、花や花篭を眺めていてもいままでとは違って見えてくる。
関心を持つと今まで目にも入らなかったものの姿に焦点があうようになってくるようだ。
今まで漠然と「見て」いたものに、関心を持ってフォーカスをあてると「観る」という言葉に近い感じがうっすらとする。
100年早いよ、と自分でもわかってはいるけれど、そんな風にものを見ていると、白洲正子さんの本も、一体今まで何を読んでいたのだろうと思うくらいに心にびんびんと響いてくる。
例えば青山二郎のことを書いたこんな文章。
「青山さんの骨董を見る目は、見というより観の字を当てるべきだろう。私は仏教の言葉にくわしくはないが、昔の坊さんたちは、座禅ばかりして瞑想にふけっていたわけではない。仏なり、極楽なり、人間の生死なりを観ずべく祈っていたのである。一心に太陽を想っていれば、暗夜に太陽は見えて来る。水を想っていれば必ず水が現れる。極楽が観たければ、極楽はまのあたり現出する。心の中で空想しているのではなく肉眼にはっきりととらえられるものであった。」
今までは漠然と読み過ごしてきたけれど、ここにはどうも観ることの奥義のようなものが書かれているのではないだろうか。
そんな気がする。
治りましたか??