2014年 06月 24日
「からごころ」とは何か
この著者の本を読むのは初めてのことだったけれど、「本居宣長が「からごころ」と呼んだ機構を追及し、日本精神を問い直す」という帯の言葉が気になって。
著者はこのように書く。
「「日本的なもの」をどこまでも追求してゆかうとすると、もう少しで追ひつめる、といふ瞬間、ふつとすべてが消へてしまふ。我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまで取り除き、純粋な「日本人であること」を発掘しようと掘り下げてゐて、ふと気が付くと、「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山にうもれてゐる。(中略)
われわれ日本人の内には、確かに、何か必然的に我々本来の在り方を見失はせる機構、といつたものがある。本居宣長はそれを「からごころ」と呼んだ。」
「がんばれニッポン」のコールが渦巻く今日この頃、そこになにやら「危うさ」を感じながらも、ふとその渦に巻きこまれそうになったりする自己のメンタリティーはどこからくるのか、なんてことを漠然と思っていたのも、この本を読もうと思った背景にあるかも知れない。
とても微妙な主題を、すれすれの所に踏みとどまりながら書く筆の冴えは、昭和61年、著者が30代半ばに書いたデビュー作とは思えぬほど完成の域に達している。
(残念ながら、その後著者は少しく思想的にエキセントリックな方向に向かってしまうわけだが)
小林秀雄の『本居宣長』について語ったこんな文章もある。
「「解釈」といふことの内にすでにひそむ我執を、洗って洗って洗いつくして、自分が何の変哲もないただの板切れ一枚になったとき、突如それを共鳴板として「宣長の肉声」が響きだすーそうなったときがおそらく、小林秀雄氏の『本居宣長』を書き始めたときであつたらう。」
この文章は、僕が知る限りもっとも小林が書きたかったことの本質に迫った批評のように思う。
この本の問いかける主題は重い。
繰り返し自らの問いとして受け止め考えなくてはいけないなあ。
ご心配おかけしてます。
この何日か肩から背中にかけて強い張りがあり、整体に行った所、目の疲れが原因と聞き、しばらく家ではパソコンを見ない生活をしてました(^^;
ぼちぼちゆるゆる更新しようと思います。