2014年 11月 10日
『フルトヴェングラーの遺言』のこと
それでも、ベートーヴェンの第九交響曲の三楽章のどこまでも高みを目指して憧れ行くような崇高さ、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲での心臓の鼓動が聞こえるようなピチカート、シューマンの交響曲四番の三楽章から終楽章への壮大な自然の峻厳さを思わせる移行部分に、他の演奏者から遥かに隔絶した、やはり「魂の音楽」としか言いようのない感動を覚える。
そのフルトヴェングラーの言葉を集めた『フルトヴェングラーの遺言』(野口剛夫著、春秋社)という本を読んでいて、その音楽のもたらす感動は彼自身の思想が結実しているからなのだと、改めて思った。
共感出来る言葉のページの耳を折っていったら、読み終えて本が分厚くなるほどになったけれど、その中からいくつか。
■人は芸術作品に没頭しなければならない。・・・没頭するとは愛することに他ならない。愛とは品定めや比べたりすることのまさしく対極にある行為であり、比較を絶したかけがえのない本質を見抜く。白日の下にさらして評価しようとする冷たい知性の世界は、比類ない芸術作品の価値をまるで理解できないのだ。
■絶対の価値というものがもはや全く信じられないから、私たちは決して事物の本質に出会うことができない。これこそがまさしく私たちの悲劇にほかならない。
■私にとって重要なのは、それが新しく見えるかどうかではなく、「魂に訴えかける」かどうかである!魂によって、すなわち人間の全体を挙げて理解するものでなければならない。
■もし私たちが昔の芸術、昔の音楽を「これは古い音楽だ」と思って聴いてしまう、つまり私たち自身にとって本当に切実な問題であるという意識を十分に持たないで聴いてしまうならば、それは誤りである。
■自らを欺いて自らの生命を失い、どんなものでも全てを手に入れようとして本来の自己をなくしているのに、彼ら自身がこの暴挙の滑稽さに気づいていない。現実には-今日の状況がどうであろうと-そこにあるのは空の容器だけである。
これらの言葉は一昔前の芸術感かも知れない。
今から三十数年前にフルトヴェングラーの著書を読んだ時には、僕もこれらの言葉を一時代前の考えだなあと思った記憶がある。
しかし、現代音楽に限らず、現代の美術やあらゆる芸術の閉塞状況を思うとき、フルトヴェングラーのこれらの言葉は、普遍的な真実として、深く考えさせられるものを持っているように思う。
芸術が、単なる商売の道具や観念の遊びや日常生活の飾りになってしまっていて、人の生活を根底から揺るがすような力を失っている今、フルトヴェングラーの投げかける言葉の意味をもう一度一人一人が噛み締めるべき時が来ているのかも知れない。
ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」 Wagner "Tristan and Isolde" トリスタンとイゾルデ」は愛と死の美学を音楽で表現したヴァーグナー芸術の最高峰ともいえる作品です。新国立劇場では「トリスタンとイゾルデ」が初演となり、会場は満員の人で熱気があふれておりました。... more
これらの言葉が今こそ必要だと、深く気づきました。