2015年 05月 31日
闇夜に一人ゴンドラを漕ぎ出すような音楽、ベートーヴェン弦楽四重奏曲15番のこと
「(後期の)ベートーヴェンは何故あんな凄い曲を書けたのでしょう。」
それに答えるためにはおそらく一生を費やし分厚い本を数冊書いても足りないだろう。
この所、ずっとベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いてきたけれど、「本当にこれは一人の人間の成し遂げたことなのか。」と改めて感嘆する。
そして、たとえ彼が弦楽四重奏曲しか残さなかったとしても、その偉業は仰ぎ見るようなことなのに、まだあの交響曲やピアノ・ソナタもある。
吉田秀和は(と、いつもこの人の言葉に帰っていくのだけれど)、「ベートーヴェンの手を通って、弦楽四重奏曲は、偉大で、しかし、すごく人間的なものになった」と書き、こんな風に続けている。
「人間という存在は、よろこんだり、怒ったり。陶酔したり、ものすごく目ざめていたり。信じたり、疑ったり。愛したり、憎悪したり。宥和したり、格闘したり。子供のようだったり、いじわる爺さんになったり。やさしかったり、かたくなだったり。あらゆる人間を許し、抱擁しようとしたり、誰ひとり近よることを認めず、孤独の闇のなかで、梟みたいに目ばかりぎょろぎょろさせていたり。冷たくおしだまったまま、しかし、両眼から涙を流していたり。といった具合に、より「人間的に」なればなるほど、同時に人間的なものを越えた存在になるのだ。」
そして、更にこう書く。
「いや、人間を越えてしまったというのではない。人間を越えた存在への予感と、それへの触手が生まれてくるというほうが正解だろう。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲は、根本において、音楽となった祈りなのだ。」
いつもながらその言葉に付け加えることはないほど、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を表現している。
後は、その音楽を聴くばかり。
ここ数日は「古典弦楽四重奏団」による15番の弦楽四重奏曲を繰り返し聴いている。
祈りに満ちた3楽章が終わり、4楽章の第9交響曲の終楽章の旋律に似たコーダに続き、とぎれなく5楽章の冒頭の、まるで闇夜に一人ゴンドラを漕ぎ出すようなほの暗い主題が鳴り始める箇所に来ると、何度聴いても胸を締め付けられるような気持になる。
ベートーヴェンの音楽の謎はますます深まるばかりだ。
やはりベートーヴェンは汲めどもつきぬ泉のような音楽ですね。