2015年 10月 25日
「マタイ受難曲」の「眼目」
「マタイ受難曲」のキモはCD三枚目と思い定め、繰り返しいくつかの演奏で聴いているけれど、やはりカール・リヒターの新旧の演奏が今の僕にはとても親しいものに思える。
今日は久しぶりの休みだったので、歌詞と磯山雅氏の大著『マタイ受難曲』を見ながら丁寧に聴いていく。
第54曲「血と傷にまみれた御頭」の哀切、第59曲「ああゴルゴダ」の不安、そして第61曲イエスが「エリ、エリ、ラマ、アザプタニ!」と叫び、それをエヴァンゲリストがドイツ語で「これは、「私の神よ、私の神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味である。」と繰り返す箇所は、何度聴いても胸が張り裂けそうな気持になる。
(磯山氏の本で、イエスがこの悲痛な言葉を語るとき、それまでイエスが語る時には光背のように必ず添えられていた弦合奏がここでのみ姿を消している、ということを知った。)
そして、第62曲のコラール「いつか私が世を去る時」の後、神殿の幕が裂け、地震が起こり、岩が裂け墓が開き、眠っていた聖者たちの多くの身体が蘇る衝撃的な音楽の後のコラール「本当にこの方は、神の子だったのだ」という部分は、リヒターの演奏で聴くと、まるで天から光が差し込んでくるように神々しい音楽であり、まさに「マタイ受難曲」全体の眼目があると、ようやく全身で知った。
吉田秀和さんは、この部分について、次のように書いている。
「「マタイ受難曲」の、根本的な劇はどこにあるのだろうか?リヒターの考えでは、この劇の主人公は群衆、つまりイエスを憎悪し、侮辱し、虐待と乱暴の限りをつくした後で、十字架につけて殺戮した人びとである。(中略)イエスが捕らわれてからここ(「本当に神の子だった」と人々が気が付く部分)までの情景とこの音楽。そこにリヒターの演奏の最も大きなアクセントがおかれる。つまり、これは、罪びとたちが(つまりは私たち全部である)イエスの言うことを信じないばかりか、さんざん彼をおとしめ死にいたらしめたあとで、奇蹟に触れて、はじめて真実を認識するという、その回心の内側の劇として把握される。」
「マタイ受難曲」を今まで何度も聴いてきたけれど、本当に迂闊なことに、その音楽を「イエスの受難劇」とは思っても、「実は主人公は群衆(つまりは自分たち自身)」であるという見方をしてきたことがなかった。
まだまだ音楽への道は遠く険しいものである。
磯山氏の本にいくつかの解釈が載っていましたので、またご紹介したいと思います。