カテゴリ:美術( 16 )


2015年 06月 22日

司馬遼太郎の語る八木一夫

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今の職場に来るまで、寡聞にして京都五条坂に生まれた八木一夫という陶芸家のことは知らなかった。

初めてその作品を見たときは本当に驚いた。

今まで僕が知っていた陶芸の概念とは全く違う、彫刻と呼んでもそこからはみ出す異様なエネルギーと、世界の何処にも収まるまいという拒絶の身ぶり(司馬さんはそれを「毒」と語っていたが)に、思わず「なんだこれは!」と岡本太郎のように手を広げそうになった。

昨夜「日曜美術館」のアンコールで放映された1981年の番組、司馬遼太郎が語る「私と八木一夫」では、生前八木一夫と親好のあった司馬さんが、その作品について、さまざまな言葉を費やし語るのだが、司馬さん本人が言うように「どんなに語っても八木一夫はわからない」。
むしろ語れば語る程、その作品から遠ざかっていくよう。

僕も実際にいくつかの作品を見て「何となくこんな感じかな」と思っていたことが、ことごとく覆され、ますますわからなくなった。

司馬さんは番組の最後に八木一夫の作品について「一人の天才が、誰の真似もせず、自分のsentimentだけで作り上げた全く新しい作品」とやむなく総括したけれど、そう語った途端に、彼は哄笑しながら、遠い所に逃げ去ってしまうだろう。
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by maru33340 | 2015-06-22 09:29 | 美術 | Trackback | Comments(4)
2014年 04月 11日

展覧会「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」で太宰治の手紙を読む

今日は、静岡市美術館で明日から始まる展覧会「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」の内覧会に出席。

川端のあの大きく鋭い眼にかなった美術品のコレクションや、手紙、ノーベル文学賞のメダルや文化勲章、東山魁夷の作品や文章まで集められた充実した展覧会になっている。

一つ一つの作品の感想を書き記せばきりがないけれど、僕が一番印象に残ったのは、太宰治がその作品「晩年」を芥川賞に推薦してもらいたいと切々と綴った手紙(現物)を読めたことだった。

手紙は長い巻物に書かれているため、全文を読むことが出来るように展示ケースが特注されている。

改行が多いその文章の余白からは、太宰のため息や息遣いまで感じ取れるようで、読んでいて胸が苦しくなってくるようだった。

他にも、三島由紀夫や横光利一、谷崎潤一郎の直筆手紙からは、作者の人柄まで伝わってくるようだ。

展覧会のカタログは、充実しており、一般の書籍として店頭にも置かれるとのこと。

文学と美術の出会いを集めた展覧会として、出色の展覧会でした。


川端康成と東山魁夷―響きあう美の世界

川端 香男里/求龍堂

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by maru33340 | 2014-04-11 22:51 | 美術 | Trackback | Comments(4)
2013年 12月 14日

速水御舟の「炎舞」

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学芸員資格のレポートもいよいよ大詰め。

今月中に後2本のレポートと2本の事後課題を書かなくてはいけない。

今日はまず事後課題を2本作成・提出した。

その一つは、今回美術史のレポートで取り上げた速水御舟の作品「炎舞」を、いったん美術史の知識を捨てて、自分の眼で見たものだけで1000文字で表現せよというもの。

今まで、こんなに絵を見つめ続けたことはなかったので、とても苦労したけど、なかなか得難い経験をしました。

以下、「炎舞」を1000文字で表現したもの。
お時間がある時にご笑覧下さい。

少し休憩したら、またレポートに取り掛からなくちゃ。

縦長の、掛け軸のような形の画面中央下から上に向かって赤い炎がうねるような姿で燃えさかっている。炎は写実的な表現ではなく、日本画の伝統的な様式の一つの「型」による表現である。しかし、その炎からは確かに熱を感じることが出来る。その色は深い朱色に近い赤であり、まるで地獄の業火のように見え、画面からはメラメラという音さえ聞こえてきそうである。炎の一つ一つは様式的な表現であるにも関わらず、まるで生き物のように身をよじりながら、妖しい揺らめきを持って闇の中に溶け込んでいる。

炎の色は、周囲の闇にうっすらと映っており、火の粉が炎の周りに描かれている。炎の煙は、螺旋を描くようにしながら画面の上方に向かってねじれ回転しながら立ち昇る。

背景は深い闇だが真っ暗闇ではなく、炎に照らされてうっすらと赤みを帯びており、ずっと見つめているとその闇に吸い込まれるような気持になる。

炎の上部には、そこに吸い寄せられるかのように9頭の蛾が舞っている。それぞれの蛾は、炎の周囲を舞い飛んでいるかのように見えるが、よく見ると、どの蛾もまるで標本箱にピンセットで止められたように正面から見た姿で描かれている。それでいて、蛾は静止しているようには見えず、炎の周囲を舞い飛んでいるように見えるのが幻想的な効果をもたらす。

画面一番上、上方に向かう蛾は炎の色に染まったかのように赤く、炎の煙と共に彼岸に向かって飛翔するかのように見える。その他の8頭の蛾は、炎の最先端を取り囲むようにして螺旋を描くような形で配置されている、画面右端、下方に向かう蛾は深く透明な湖のような澄んだ緑色が美しい。画面の左端と右から二番目には白く透明な蛾が描かれ、この絵の透明感を増し、炎の先端付近には他の蛾よりもやや小さめな蛾が対になるようにして描かれ、見る者の視線をそこに集中させる効果がある。画面左から二番目と三番目の蛾の柄は他の蛾の柄とは違い、1頭は黒い斑点模様、もう1頭は羽にうっすらと描かれた眼球のような黒い模様が禍々しく、どこか異次元への入り口を思わせる。

9頭全ての蛾の羽の先端は背景の闇に溶け込むように描かれており、その効果によって、蛾が小刻みに羽を震わせているように見える。

画面全体は、装飾的でありながらリアリズムも感じさせ、写実と夢の中での風景のような幻想的な景色が混然一体となり、見る者を不思議な陶酔に誘うようだ。


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by maru33340 | 2013-12-14 15:36 | 美術 | Trackback | Comments(5)
2013年 11月 25日

夢二のこといくつか

12月に「金沢湯涌夢二館」で「山名文夫と夢二」と題してささやかなギャラリートークをすることになったので、休館日でお休みの今日は終日家に籠り夢二関連の本を読んで過ごした。

夢二の年譜を眺めていると、大正6年(1917年)に彼は東京を離れ、京都の高台寺近くの借家に彦乃という女性と住んでいたことがわかる。

おそらく彦乃は夢二が最も愛した女性だったが、彼女の父親によって翌年東京に連れ去られ、大正9年に結核によって23歳の生涯を閉じた。

先日遊びにきた母は京都生まれの京都育ちだったので、夢二が高台寺近くに住んでいたことを何気なく話したところ、「その夢二が住んでいた借家の大家は私のおばあちゃんだったのよ。」と言う。そしてそのおばあちゃん(僕にとっては曾祖母)はよく「夢二はんは、なかなか家賃をいれてくらへんかったんで難儀しました。」と話していたという。

そんな縁があったこともあり、本を読んでいてもそこに夢二がいるような気がして、彼の作品や生涯のはかなさと哀しみがそくそくと身に沁みるようだった。

夢二がその晩年近くに絵画に添えたこんな文章は、彼の心象風景を物語るようだ。

 風がひそり
 街の巷を
 走るなり風におはれて
 いそぐ心か        夢二生

夢二は昭和9年(1934年)彦乃と同じ病気である結核で49歳で逝去した。

竹久夢二―美と愛への憧憬に生きた漂泊の画人 (RIKUYOSHA ART VIEW)

石川 桂子,谷口 朋子/六耀社

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もっと知りたい 竹久夢二 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

小川 晶子/東京美術

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菊坂ホテル (シリーズ昭和の名作マンガ)

上村 一夫/朝日新聞出版

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by maru33340 | 2013-11-25 21:39 | 美術 | Trackback | Comments(3)
2013年 09月 27日

横山大観の孤独について

やはり眠れぬまま、朝から坂崎乙郎の『絵を読む』を読む継ぐ。

その言葉は熱い。

坂崎は大観の、当時蔑称として使われた「朦朧体」について、「朦朧体はあらゆるあらゆる神秘の共通分母、虚と無と静である」とし、次のように書く。

「ヨーロッパの世紀末芸術にも総じてこの虚と無と静が顕現されていなかったろうか。漠然たる個の不安の感情をさらに包むより大きな不安。オデュロン・ルドンにギュスターブ・モローにときおり火箭のようにきらめく存在があったとすれば、それはただひとつの聖なるものの暗示であった。あとはなべて、虚と無と静である。
 ここからは何も生じない。瞑想と諦観以外は。芸術家の仕事は雲焔を創造する以前に、確固たる実態をこの地上に定着することである。自然に逆らう実体を。無情に反逆する実体を。芸術家はすべて過ぎゆくもののあいまから、指をもれる砂、流れる雲、消える光のあいだから何かをつなぎとめなければならない、あの白い雲の絹索の上に。
 何かとは人間であるだろう。集団の中の個人の、群衆の中の個の、観念でもない理念でもない、むきだしの肉体と貧しい魂を具え一刻一刻この空間に運動の軌跡を残す脆くひたぶるな人間であったろう。不幸にして、日本画家は、いまだ大観の先をゆく人間を描いてはいないのである。」


坂崎以降の美術評論は、こんなに熱い言葉を持っているだろうか。
そこに僕は大観のそして坂崎のとてつもない孤独を思うのだ。
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by maru33340 | 2013-09-27 07:11 | 美術 | Trackback | Comments(4)
2013年 09月 22日

モネと日本画との対話

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昨日は仕事をしたけれど、まだ風邪は抜けず身体がだるいので、今日は終日横になり本を2、3頁読んでは昼寝。

夕方からようやく起き上がり、日曜美術館で「平松礼二 モネとの対話」を見る。

素晴らしい番組だった。

日本画家である平松が、50歳を越えてモネの睡蓮に衝撃を受けて描いた睡蓮の絵画は素晴らしく、久しぶりに本当に好きだと思える絵画に出会えた。

平松が淡々と語る言葉も心打つものだった。

「創造とは古いものを脱ぎ捨てる戦いだ。」

「咲かない花も、降らない雨も、降らない雪もみんな夢の中の出来事で、それを描くのが創造だと思う。」

「70歳になって初めて自由に遊べるようになってきた。」

最新作では、モネの世界と琳派の華麗な屏風絵の世界が自然に融合し、夕映えに真っ赤に染まる雲が池に映り、箔を活かした睡蓮が耀く。

フランスまでその展覧会を見に行きたくなった。
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by maru33340 | 2013-09-22 21:18 | 美術 | Trackback | Comments(4)
2013年 07月 15日

私の挽歌は鷗らにうたわせよ-岡倉天心のこと

岡倉天心について知っていることと言えば『茶の本』の作者であるということくらいである。

『茶の本』は昔、アンダーラインなどを引きながら読んで随分感心したけれど、今はその内容もほとんど忘れてしまった。

もちろんウイキペディアにある下記のようなことは知識としては知っていたけれど、その奥に潜む天心の思想や思いについて今まで深く考えたことはなかった。

【岡倉天心】
東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、また日本美術院を創設した。
近代日本における美学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成といった多岐に渡る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に寄与した。

昨日朝の日曜美術館の「岡倉天心」の特集を、家事の合間に見ながら、彼の人生の前半の意気軒昂たるありさまと晩年(彼は1913年50歳で没している、今年が没後100年になる)の孤独と寂寥とのギャップに心打たれた。

番組の最後に朗読された、天心が亡くなる直前に、あるインドの女性詩人に送った手紙の中の文章からは、晩年の彼の心情が痛いほど感じられる。

私が死んだら
悲しみの鐘を鳴らすな。旗をたてるな
人里遠い岸辺、つもる松葉の下ふかく
ひっそりと埋めてくれ−あのひとの詩を私の胸に置いて。
私の挽歌は鷗らにうたわせよ。
もし碑をたてねばならぬとなら、いささかの水仙と、たぐいまれな芳香を放つ一本の梅を。
さいわいにして、はるか遠い日、海もほのかに白む一夜、甘美な月の光をふむ、あのひとの足音の聞こえることもあるだろう。
     


少し岡倉天心のことを調べてみたくなった。
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by maru33340 | 2013-07-15 06:37 | 美術 | Trackback | Comments(4)
2013年 07月 09日

一つの山を越えて

学芸員課程のレポート提出に関しては、締切期限が限定されている「概論」「経営論」「資料論」を期日までに提出することが、最初の大きな山だと思っていた。

「資料論」は本当に苦戦して、提出間際まで構想がまとまらず、出張なども重なり、ひたすら焦るばかりの毎日だったけれど(結果はともあれ)なんとか締切間際に提出することだけは出来てようやく人心地ついた。

後は、2回のスクーリングと、6本のレポート。
この先は、いかに自分で立てたスケジューリングを守る意志を保てるかが鍵になりそうです。

意志が弱いことにかけては自身があるので、これからは自分との闘いですね。

いやはや。
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by maru33340 | 2013-07-09 21:51 | 美術 | Trackback | Comments(6)
2013年 07月 01日

レポートの苦しみ、浮世絵の楽しみ

学芸員資格課程は、レポートとスクーリングの2本立て。

先日スクーリングのため2日間京都に行き、楽しく学習した。

しかし、レポートは楽しく、というわけにはいかず、毎月の提出締切が近づくとあれこれと考え、眠れぬ日々が続く。
6月までに、なんとか博物館概論と博物館経営論のレポートは提出し、及第点をもらえたけれど、今週末提出の博物館資料論のレポートの構想がまとまらず、現在大苦戦中。
どう書いていいのか構想がまとまらないまま提出日が近づいてくる・・・

そんな中、今回の資料論のテーマを、前回の経営論課題と関連付けて、まずは自分がまかされた展覧会を、「今回の世界遺産登録と連動した、富士山をテーマにした美術作品による展覧会」とし、同様の作品を収集している美術館の事例を研究しよう、と思い定めた。

富士山といえばやはり浮世絵作品は欠かせず、図書館に行き浮世絵関連書を数冊借りてきた。

今まで浮世絵については、きちんと勉強したことはなかったせいもあり、知れば知るほど面白いし、その研究の奥深さにはめまいがするほど。

しかし、あまり浮世絵そのものにのめり込んでしまっては、レポートが書けないし・・・

まだまだ悩みの日々は続くのであった。
(って、ブログに書いている暇があったら少しでもレポート書けばいいのだけれど、これも一種の現実逃避かしら・・・)
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by maru33340 | 2013-07-01 06:58 | 美術 | Trackback | Comments(7)
2013年 06月 08日

陸軍軍医総監の息子としての藤田嗣治

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藤田嗣治が父と二人で映っている珍しい写真がある。

昭和8年、父嗣章、80歳。藤田嗣治は47歳。

藤田の父は森鷗外の後任として陸軍軍医総監を勤めた。
この写真でも80歳でありながら、背筋はピンと伸びて、いかにも明治の軍人といった風格が漂っている。

一方、おかっぱ頭にロイド眼鏡、ちょび髭にベレー帽の藤田は日本的風景の中ではあまりに風変わりに見える。

藤田はこの時、3人目の妻リュシー・バドゥ(通称ユキ)と別れ、愛人マドレーヌ・ルクーを連れてアルゼンチン、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコと約3年間の彷徨を経て日本に帰国していた。

その前、昭和4年に17年ぶりに日本に帰国した藤田は母校の東京美術学校の講演「巴里における画家の生活」でこんなことを語っている。

「(画家は)普通の人が考えている事でもなくもう一つ先のことを考えねばならぬ。どうしても初めに突飛なことをすると皆あれは気違いとか、あるいはへんてこりんな奴と世間では馬鹿にしますがそれはただ気違いとう字を借りて一時その人を解釈して皆安心しているのであります。
だから画家は皆より一歩先に進んでいるのでありまして、それを世間はちょっともわかってくれない、まして家の人とか何とかは、そういう考えを持っている息子を持っていると困ることになるのであります。」

ここには意外なまでに率直に自己を語る藤田がおり、終生父のことを気にかけて心を痛めていた藤田の姿が垣間見えるようだ。

そして、その軽やかな諧謔の口調の奥の藤田の深い哀しみもまた透けて見えるようにも思えてしまうのだ。
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by maru33340 | 2013-06-08 06:16 | 美術 | Trackback | Comments(6)