新・クラシック音楽と本さえあれば

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2014年 01月 30日

パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム~サイモン&ガーファンクルの歌詞を読む~

サイモン&ガーファンクルの曲「スカボロー・フェア」の中でまるで呪文のように繰り返される「パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム」という歌詞のことはずっと前から(中学生の頃からだから40年以上)気になっていた。

だから、昨年NHKのカルチャーラジオのテキスト『サイモン&ガーファンクルの歌を読む』を書店で見かけたときに「買おう」と思っていたのに、うっかり買いそびれてしまい年が変わり、次のテキストのサイクルになってしまったので書店ではみかけなくなってしまった。

それでもnumabeさんのブログでこのテキストの紹介を読んで「やはり買わなくては」と思い捜し歩き、昨日京都の本屋で発見し、京都からの帰りの新幹線の中で一気に読み、自宅に帰ってからも読み続けた。

これはとても興味深いテキストだった。

外国のポップスの歌詞をこんなに真剣に読んだのは初めてのことだけれど、ポール・サイモンという人は本物の詩人であると今更ながら気づいた。

その歌詞は、どこか黙示録的であり、言葉を象徴的に使っているので、一読しても意味がつかみづらい。

例えば「スカボロー・フェア」。
この曲は、イギリスに伝わる口承のバラッド(バラードではなく「物語詩」という意味)を元に、二人が作り直したもの。

この曲の歌詞は、バラッドの部分と詠唱の部分からなる。

最初の部分の歌詞は、

 スカーバラの市に行くのかい、
 パセリ・セージ・ローズマリー・タイム
 あそこに住んでいるあの人によろしく、
 かつてあの人は本当の恋人だった。

とスカーバラに住むある女性への伝言だけれど、伝言内容は「縫い目もなく針の跡も見えないようなシャツを作るように言ってくれ」などと実現不可能なものばかりになっていて、伝言を託された人は一切返答をしない。
曲の中で4回繰り返される「パセリ・セージ・ローズマリー・タイム」も呪文のようで何を意味するのかわからない。

テキストによると「このバラッドにはキリスト教以前の原始信仰の跡が残り、語り手は異界の住人、つまり異形のもの、あるいはフェアリー(実は悪魔のようなもの)であり、聴く者を異界へと誘い込もうとしている」らしく、「繰り返される薬草の名前は、異界人の言葉に対する魔除けのような役割を果たす」とのこと。

ちょっと怖いけれど、この曲が持つなんとも神秘的な雰囲気を考えるとわかるような気もする。

更にこの曲の詠唱部分の歌詞は、戦争のイメージに満ちている。
例えば、

 丘の中腹にはあちことに葉が茂る。
 墓を洗うのは銀色の涙。
 1人の兵士が銃を磨く。

こんな歌詞の詠唱が3ヶ所に織り込まれており、バラッドと詠唱部分はまったく異質の歌詞で、それがかみあわされることで不思議な「異化効果」が現れる。

このテキストでは、他にも有名は「コンドルは飛んでいく」や「ミセス・ロビンソン」などについてもその歌詞を精緻に読み込んでおり興味はつきないのだ。




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by maru33340 | 2014-01-30 20:51 | 日常 | Trackback | Comments(3)
2014年 01月 26日

作ることと考えること~『名前のない道』のこと

輪島塗の職人(塗師)である赤木明登氏による著書『名前のない道』を読んでいる。

この人の文章が好きで、以前からその著書を読んできたけれど、その中でもこの本は、その思索の深さという点で出色の一冊だと思う。

あれこれと感想らしきものを書くより、著者自身の言葉が全てを表しているから、以下いくつか文章を引用し紹介に代えたいと思う。

「僕のうつわは、ほぼ全て古作を写して作られている。どういった因果か一つだけ僕の手元に流れ着いた古椀を写して、新しい椀を百も千も作り続けていると、写して作っている主体が僕ではなく、古椀が意志を持って僕の肉体を操り、自ら増殖しているのではないかと思えるようになった。そうであるならば、僕はそれを喜んで受け入れる。
僕の手の内にあった椀は、確かに僕のものだけれど、それは僕の作ったものでなくてもいい。時間を過去に遡ることによって、僕は姿を消していくことができる。僕個人を消し去ることによって、うつわは大きく深いものになる。そういうふうにして作られたうつわは、人の暮らしに奉仕し、日常に使い尽くされ、磨滅して消えていく生活道具。その姿形は、失われていくことによってのみ永遠を獲得するのではないか。」

「身近にあるありふれたものを美しいと感じること。そして、その深みを、奥行きを解き明かそうとすること。その成果は、この世界の秘密を解く鍵に、そして自分の内部と外部を結ぶ回路となる。かつて、鍵と回路の役割を担っていたのは、宗教だったはず。宗教の時代が終わって、その代わりを担ったのは、芸術ではなかったのか。僕たちが生きていくためには、リアルにこの世界に存在するためには、この鍵と回路が必要なのだ。いまや、それはいったいどこに行ってしまったのだろうか。」

冬の朝にこんな内省的で静かな文章を読んでいると、心の底がしんと澄んでくるような気持になってくるようだ。

名前のない道

赤木 明登/新潮社

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by maru33340 | 2014-01-26 06:43 | お勧めの本 | Trackback | Comments(5)
2014年 01月 24日

アバドを偲んでベルクを聴く

先日亡くなったアバドの演奏で印象に残っているのは、マーラーの交響曲四番やブラームスの交響曲四番、そしてグルダとのモーツァルトのビアノ協奏曲。

今日、東京への出張の新幹線の中で、そういえばもうひとつアバド指揮によるアルバン・ベルクの「ルル組曲」の名演をウォークマンに入れていたことを思い出し、聴き始めた。

昨日から少し体調が良くないせいか、この世紀末の薫りに満ちた、甘くけだるくそして少し苦い音楽は今の気分に合うようだ。

ベルクを聴きながら、しばしアバドを偲ぶことにしよう。
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by maru33340 | 2014-01-24 08:51 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)
2014年 01月 17日

山田太一の含羞

山田太一のエッセイ『月日の残像』(新潮社)を読んでいる。

読みながら、山田太一という人には一筋縄では行かない所があると感じている。

人あたりが良さそうなのに、狷介で誇り高く、それでいてひどくシャイで、懐によく研いだ合口を秘めているような、少し不気味な危うく暗いひんやりとした魅力もある。

その山田太一が三島由紀夫についてこんな風に書いている。

「40年ほど昔の私は、三島由紀夫の派手な言動につきまとう、文学に対する現実にたいする他人に対する謙虚、無理もないシャイネス(シャイネスに対する闘い)に魅かれていた。それを売り物にするのではなく、むしろ隠してもあらわれてしまうという形で見えかくれする所に一種の色気のようなものを感じていた。」

三島をこんな風に語った人を少なくとも僕は知らない。

山田太一と三島由紀夫には、今はほとんど絶滅寸前の言葉に近い「含羞」という美徳を持つという点で、とても近い所に立つ作家だったことに初めて気づいた。
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by maru33340 | 2014-01-17 22:18 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)
2014年 01月 16日

シャガールそして忘れられた詩人のことなど

今日はシフトのお休み。

少し暖かくなってきたので、静岡市美術館まで「シャガール展」を見に行く。

パリ・オペラ座の天井画やステンドグラスのための作品など、日本未公開作品163点を含む236点の作品は見ごたえがあり、ひとときシャガールの夢の世界に遊んだ。

往復の東海道線の中では、saheiziさんご紹介の『古本の時間』(内堀弘著、晶文社)に読み耽った。

これは、平日の少し暖かい冬の午後、菊川、島田、藤枝、焼津・・・といった東海道五十三次の宿場の名前の駅に一つ一つ停まる各駅停車の中でゆるゆると読むのにとてもふさわしい本だった。

自身も石神井にある詩歌専門の古書店「石神井書林」を営む著者によるこのエッセイは、古本の世界に生きる希少な人物の可笑しくそして時に切ない記録である。

まずは(ほぼ確実に)儲かることは難しいであろう古本屋という職業の生態が、たくまざるユーモアを交えた筆致で描かれていて興味がつきない。
(これはしかし興味のない人には全く面白くない世界かも知れないけれど・・・)

札幌の古本屋「薫風書林」のことを描いて、

「溢れた本はとうとう店を出て、これから雪を迎えるというのにこうして外で積み上がっている。私も人のことは言えない。本が足りていないわけではない。その反対だ。売るほどあって溢れている。なのにこうして札幌まで本を買いに来てしまう。古本屋は職業ではなく生き方かとも思ったが、この(店外に溢れた本の)コンテナを見ていると、生き方というより病理なのかと思ってしまう。」

と書く、自分を少し遠くから見つめているスタンスが良い。

僕がこの本で最も心惹かれたのは、昭和9年に21歳の若さで浜松で逝去した無名の詩人の塩寺はるよのことだった。

彼女は昭和8年の夏、浜松の小さな同人誌に初めて詩を載せた。
左川ちかや北園克衛らの詩人がすぐ彼女の詩才に気づき、その年の冬にはレスプリ・ヌウボオの尖端に名を連ねる。
しかし、翌年の春には21歳の生涯を閉じる。
彼女を見出した左川ちかもその2年後に24歳で逝く。

塩寺はるよが昭和9年2月に発表した「水色のランプ」は次のような詩である。

この誇を傷めまい
あなたの耳朶に揺られて石像はやさしく葡萄畑におり立とう
にはかに歸る人聲が聞こえると
影の人の
夜の会話は吐切れました

僕にはこの詩が良い詩なのかどうかは本当にはわからない。
しかし、どこか惹かれる所がある。

彼女の死を、詩人の北園克衛は「優れた火災の終了」と書いた。
夜の火災が一輪の薔薇のように見えるとすれば、詩人も一つの火災なのだと。

内堀はこのエッセイを次のような言葉で締めくくる。

「彼女の詩集をもう一度手に入れたいと思ってから二十年ほどが過ぎた。あっという間のように思う。でも、その時間が「彼女」の生涯と同じなのかと思うと、なんだか途方もない気持ちになる。」

古本の時間

内堀弘/晶文社

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by maru33340 | 2014-01-16 17:22 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)
2014年 01月 09日

「結局、人生はひとつの窓から眺めた方がほど良く見える」

「結局、人生はひとつの窓から眺めた方がほど良く見えるそうよ」
(Life is much more successfully looked at from a single window,after all.)

先日読了した乙川優三郎の小説『脊梁山脈』の後半で、この物語のヒロインの一人である奔放な女性の佳江が、主人公の矢田部に向かってそう語る所を読んで胸がチクリと痛んだ。

佳江は更にこう続ける。

「たとえば高村さんには工芸という眩しい窓がある、本気で見ようとしない人には意味のない窓だけれど、そこから見えるものがすべてでも息苦しくはならない、それどころかどんどん世界が広がる、老いても古くなった同じ窓から見つめるものがあるのはいいわ、その点、あなたの人生は窓が多すぎて却って展望がきかない、あっちを見たり、こっちを見たりしながら、実は見るべきものを見失ってしまうタイプじゃないかしら」

僕の胸の痛みはチクリからグサリに変わる。

矢田部は「余計なお世話だ」とうそぶきながら「薄々自覚していた弱点を言い当てられたような気がした」と自省する。

僕は自省どころか猛省する。

あちらこちらに興味が移り、あれやらこれやらと本を読み散らかし、音楽も絵画もふらふらと彷徨いながら、いずれも中途半端なこと限りない。

いささか遅きに失した感も否めないけれど、そろそろ一つしっかりとしたテーマを決めて、その道を深く掘り進める必要があるようだ。

2014年の年頭にあたり、自戒の念として書き留めておくけど、いつまで続くことやら・・・

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by maru33340 | 2014-01-09 21:46 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)
2014年 01月 06日

心震える名作『脊梁山脈』(乙川優三郎著)を読了する

冬季休暇の最終日の今日、深いため息と共にこの『脊梁山脈』を読了した。

敗戦後、昭和21年3月。
故郷へ向かう復員列車の中で矢田部信幸は一人の復員兵小椋康造に助けられる。
彼を探し、深い山を巡るうちに木工に魅せられ木地師の源流とこの国の形の成り立ちを辿って行く・・・

物語は骨太で、文体は硬い石を鋭く深く鑿で刻み込むような文体である。
それはちょうどジャクリーヌ・デュ・プレの弾くエルガーのチェロ協奏曲の最初の一音のように、僕の肺腑を抉る。
こんなに重く深い小説を本当に久しぶりに読んだ。

物語は、主人公の木地師の源流を求める旅、そしてその旅は日本という国の成り立ちをたどる壮大な物語へと発展する。

同時に、二人の対照的な魅力的な女性(カストリバーの女主人から、自らの宿命に導かれるようにして画家への道を選ぶしたたかで奔放な佳江。木地師の娘で、芸者として密やかに生きようとする多希子)との恋愛もこの小説に艶やかかな味わいを与えている。

随所に、魅力的で深い思索に満ちた文章があり、自らの人生を振り返り、「自分は本当に深く考えて自らの生を選んでいるのだろうか。」と自省するばかりだ。

一読ではこの小説の本当の姿はつかみ切れていないだろう。
これからも再読、再再読する小説になりそうだ。

この小説は、時代小説作家である著者が初めて書いた現代小説であり、昨年の第40回山本周五郎賞を受賞した。

脊梁山脈

乙川 優三郎/新潮社

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by maru33340 | 2014-01-06 21:05 | お勧めの本 | Trackback | Comments(6)
2014年 01月 02日

年末から年始にかけて、言葉そして文章について考える~多和田葉子『言葉と歩く日記』のこと~

年末から年始にかけてはいろいろと浮世の義理で街の雑踏の中に出かけなくてはいけないので、人疲れしてしまって、なかなか本が読めない。

ようやく読み終えたのが多和田葉子著『言葉と歩く日記』(岩波新書)。

これは、文章や言葉について深く考えさせてくれる良いエッセイだった。

昨年はレポートを何枚か書いたので、文章について何かと考えることが多かったけれど、レポートを書くときは極力一つの文章を短くと指導される。

確かに論文では、それが必要だろう。

しかし、どうも僕の文章はややもすると長くなり勝ちで、つまりはそういう迷路のような、行きつ戻りつ、躊躇い立ち止まり、時には迷路に迷い混むような文章が好きなのは性分なのだろう。
(吉田健一の文章が好きなのはおそらくそのせいだ。)
だからずっとレポートを書いているとストレスがたまり、blogではその反動で長く比喩の多い文章を書くことが多いようだ。

この本には、トーマス・マンの『魔の山』の一節が、多和田氏の訳で載っていて、これは(一文が長く)とても僕好みの文章だ。

「十月が始まった。新しい月がいつも始まってきたのと同じように、-その始まり方自体は全く遠慮がちで物音一つ立てない、兆しも目印もない、静かに忍び寄るような、つまり言ってみれば、よほど規則的な生活をしている意識でなければとり逃がしてしまうようなものだった。本当は時間というものに節目はなく、月の始めや年の始めに稲妻が光り雷が落ちるわけでもなく、世紀のかわり目にさえ、花火をあげ鐘を鳴らすのは人間くらいのものである。」

こうして、新しい年の始めに一人部屋でトーマス・マンの文章を引用している時には、世間の雑踏とから騒ぎから離れて心穏やかな気持ちを取り戻すことが出来るようだ。

言葉と歩く日記 (岩波新書)

多和田 葉子/岩波書店

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by maru33340 | 2014-01-02 18:10 | お勧めの本 | Trackback(1) | Comments(6)