新・クラシック音楽と本さえあれば

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2014年 03月 31日

永劫の時、桜咲くこと

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勤務先に咲く桜が満開になった。

早くも風に舞う桜を夢うつつの中で眺めながら、この景色に似合う音楽は何だろうとぼんやり考えて、やはりバッハ、それも無伴奏チェロ組曲の一番の冒頭を思い出した。

ゆっくり深呼吸をして、弓をおもむろに弦に置き、最初の音を出す。

ゴンドラに揺られるような、最初の七音が始まり、その旋律が緩やかに繰り返される。

この音楽を聴くと僕は何時も、麗らかな春の朝、両岸に満開の桜の花が咲く水郷を、一艘の舟が音もなく静かに流れていく姿を思い出す。

その舟にはミレーの描いたオフェーリアに似た少女が、まるで眠っているような姿で横たわり、そこに桜の花弁が一ニ片降りかかる。

バッハの音楽は、いつの間にかやみ、舟の姿も消えて、時間の流れさえ消えたように、ただ桜を映す水郷がゆるやかに漂うばかり。

永劫の時間という言葉にバッハの音楽ほど似合うものはない。
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by maru33340 | 2014-03-31 09:02 | お勧めの本 | Trackback | Comments(6)
2014年 03月 29日

懐かしい「ミュンヘンへの道」

今日は仕事で遅くなり10時過ぎに帰宅。

テレビをつけたら、偶然NHK でミュンヘンオリンピックで優勝したバレーボール男子の物語の番組を放送していた。

ミュンヘンオリンピックの開催された1972年、僕は中学一年生だった。

部活は剣道部に入ったけれど、当時アニメで放送していたミュンヘンオリンピックで金メダルをめざすバレーボール男子の物語「ミュンヘンへの道」を見て、すっかり魅せられてしまい、感動のあまり剣道部を辞めて、バレーボール部に入り直した。
(剣道部の先輩には竹刀を持って追いかけられたけれど)

バレー部では、体操服の胸に雑巾を縫い込み屋外でフライングレシーブをした。

ミュンヘンオリンピックで日本が準決勝でブルガリアに2セット取られた後、奇跡の逆転をしたときは涙が止まらず、手にはいる限りの新聞を買って来てスクラップブックに張り付けた。
(しばらくの間僕の宝物だった)

あれから42年も経ってしまったのかと思うと、感慨もひとしお。
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by maru33340 | 2014-03-29 23:14 | Trackback | Comments(3)
2014年 03月 23日

ドビュッシーそして大観

f0061531_22525423.jpg今日の日経新聞のコラムに杉本秀太郎氏が「ピアニスト」というエッセイを寄せていた。
その文章の中で氏は、カティア・ブニアティシビィリとダニール・トリフォノの二人の若いピアニストについて「かれらの音は、ピアノのなかにもともとこもっていた音にかれらが触ったがために、音が起きだして鳴響となったように聞こえる。」と書いている。

氏は「ピアノという楽器を「音を出す装置」としてではなく「音に触る装置」としてとらえた時に、ピアニストとしての「私」は消えて、代わりに音が立っている」と書き、アンジェラ・ヒューイットをそうしたピアニストの系譜に位置づける。

そして、彼女の弾く、ドビュッシーのワルツ曲「レントより遅く」の官能性について、「ピアノを「音に触る装置」として扱わなくては実現しなかった音楽」と語るのを読んで、アンジェラ・ヒューイットの弾くドビュッシーアルバムを探し出して、聴いているうちに杉本の言葉の意味がなんとなくわかるような気がしてきた。

そこにはくっきりとした輪郭ではなく、まるで空気のようなアトモスフェアが漂い浮遊するような感覚に包まれる。

そうして、そのドビュッシーを聴きながら、僕は突然横山大観の絵画のことを思い出した。

特に「朦朧体」と呼ばれた時代の絵画の持つ空気に、アンジェラ・ヒューイットのドビュッシーはとても近いように感じるのだ。


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by maru33340 | 2014-03-23 22:55 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(7)
2014年 03月 17日

ようやっと観た映画『ハンナ・アーレント』と「凡庸の罪」について

封切り前から観たいと思っていた映画『ハンナ・アーレント』を、今日ようやく浜松で観た。

多くの人がレビューで、映画の最後の7分間のスピーチについて書いていて、やはり今日そのシーンを観て鳥肌が立つ思いだった。

ナチスの要人アイヒマンの裁判傍聴記録において、アーレントは、アイヒマン個人は、特別な悪魔ではなく、無思考のまま組織の命令に従う「凡庸の罪」こそ本当の問題であると書く。

このアーレントの主張は、周囲の人々からは、アイヒマンを擁護したものとして反発される。

またアーレントは、ユダヤ人の一部にナチスに加担した者がいることも指摘し、ユダヤ社会からも非難される。

それでも、彼女は「思考すること」を止めず、「思考することをやめること」こそがやがて「人類の罪」に加担することに繋がると主張する。

振り返って、組織に生きる僕らは、いけないと知りながら、それは間違っていいると思いながら、その場の空気に支配されて、自ら思考することをやめてしまってはいないか、言わなければならないことを言わずに済ませていないかと自問する時、忸怩たる思いにかられてしまう。

作られたヒーロー、ヒロインの物語に熱狂し、その仮面が剥がれれば、手のひらを返したように鞭打つ最近の一連の社会現象を観ていると、この映画の問いかける問題の射程は、深く広く、繰り返しそこに立ち戻らなければならないと改めて痛感するのだ。


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by maru33340 | 2014-03-17 16:49 | 映画 | Trackback | Comments(4)
2014年 03月 17日

西脇順三郎の『旅人かへらず』

先日、西脇順三郎の『旅人かへらず』をふいに読み返したくなり、本棚から探し出して机に置いておいた。

そうして、二三日たった頃に、友人がブログで西脇のことを書いているのを読み、ああ、やはりその詩を読む時期が来ていたのだなあと思い、岩波文庫の『西脇順三郎詩集』を開いた。

やはり、まず『旅人かへらず』からと読み始めたら面白くて、全部読んでしまった。

今の僕の心に響くのは次のような詩たち。

二九

 蒼白なるもの
 セザンヌの林檎
 蛇の腹
 永劫の時間
 捨てられた楽園に残る
 かけた皿

一六〇

 草の色
 茎のまがり
 岩のくづれ
 かけた茶碗 
 心の割れ目に
 つもる土のまどろみ 
 秋の日の悲しき

一六八

 永劫の根に触れ
 心に鶉の鳴く
 野ばらの乱れ咲く野末
 砧の音する村
 樵路の横切る里 
 白壁のくずるる町を過ぎ 
 路傍の寺に立寄り
 曼荼羅の織物を拝み
 枯れ枝の山のくずれを越え
 水茎の長く映る渡しをわたり
 草の実のさがる藪を通り
 幻影の人は去る
 永劫の旅人は帰らず



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)

西脇 順三郎/岩波書店

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by maru33340 | 2014-03-17 09:00 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)
2014年 03月 16日

朝のブルックナー

今日はお休み。

午後から少し仕事に行かなくてはならないけれど、最近少し疲労気味なので、午前中はブルックナーの交響曲を聴きながら横になって読書。

演奏はチェリビダッケで。

果たしてどこに向かっているかわからない滔々と流れる大河のようなブルックナーの音楽と、極端に遅いチェリビダッケの演奏が今の僕の気分に相応しいようだ。

階段をゆっくり登り降りするようなシンプルな音進行や、時折、野辺に咲く小さな花を愛でるような素朴な旋律の風情にもまた心ひかれるものがある。
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by maru33340 | 2014-03-16 10:59 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)
2014年 03月 15日

堕ちた偶像と人々の邪悪な欲望

先日別人のような姿で現れた現代のベートーヴェンと、STAP細胞の女性研究者を巡る騒動には共通した空気を感じている。

もちろん、金銭を支払っての代作や試験結果の偽造(もし、事実ならだけれど)は人として許されざることであることは間違いない。

しかし、二人とも、マスコミによって散々過剰な物語をこってりと塗布されて、片や「感動的なシンフォニーを作る盲目の作曲家」片や「割烹着を着た若き女性研究者」として、天まで昇るほどに持ち上げられて、いったん疑惑が生じると、その反動を更に上回る勢いで、舌なめずりせんかのごとき悪意に満ちて、唾棄され、鞭にて打たれ、蔑まれ、さらしものにされる。

その勢いは、まるで貶めるために、持ち上げたのではと思うほどだ。

かつてキリストは、姦淫の罪で人々に罰せられようとしている女性を前にして「汝らの中で、罪なきものはまずこの女に石を投げよ」と語った。
その言葉にそれまでガヤガヤと騒いでいた群衆は水を打ったように静かになり、一人去り、二人去り、誰も彼女に石を投げなかったという。

もし、現代にキリストが現れて、件の作曲家や研究者の周りで騒いでいるに人々の前に立ち、上の言葉を発したら、果たしてどうなるだろう。

おそらく、人々は、キリスト諸共石を投げ、嬉々として彼らを唾棄し、鞭を打つのではないか?

堕ちた偶像と人々の限りなく邪悪な欲望渦巻く空気にはとても恐ろしいものを感じてしまうのだ・・・
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by maru33340 | 2014-03-15 19:16 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)
2014年 03月 11日

あの日から

今朝起きてどうも身体がだるく、心が沈んでいた。

風邪ではないようだし、何か心屈する事があったわけではないのに何故だろうと訝しく思いながら、ああ、あの日から3年目たったのだと思い出して納得がいった。


あの日僕は勤務先のビルの20階にいた。

経験したことのない突然の大きな揺れに、オフィスの机の下に潜りながら、向かいのビルが左右にゆらゆらと揺れ、窓ガラスを清掃中のゴンドラが振り子のように揺れているのを見ながら、まるで幻を見るように感じ、現実の事だとは思えなかった。

しばらくして、隅田川に浮かぶ舟が川の上流に向かって動いていくのを見て、ただ事ではないことが起きていると感じ身体が震えた。

あの日、もしかするともう駄目かも知れないと思いながら、もし無事なら、一日一日、一瞬一瞬を大切に生きようと心に思った気持ちを、ややもすると忘れそうになる自分がいる。

風化させてはいけないのだ、あの日もあの時の自分の心も。
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by maru33340 | 2014-03-11 20:42 | お勧めの本 | Trackback | Comments(5)
2014年 03月 10日

フラジャイル(弱さ)について

明日、3月11日は、東日本大震災から3年目にあたる。

テレビでは、様々な特集が放送されているけれど、僕は部屋でバッハの「マタイ受難曲」を聴きながら黙祷の気持ちでいる。

今は、本棚から、松岡正剛氏の『フラジャイル』を再び取り出して眺めている。

この本が出版されたのは、1995年7月。
その年の1月、阪神淡路大震災が発生した。
その16年後に東日本大震災が発生したから、この本が出版されてからもう19年が経つけれど、今も、いやいや今だからこそなおさらこの本の存在価値が高まっているような気がする。

この本の解説で詩人の高橋睦郎氏は、こんな風に書いている。

「私たちの日本は四方を海に囲まれ、狭く、険しく、地震・風水害など天変地異にさらされてきた。それこそフラジャイルな(弱い)国土だ。そこにそだった日本人、日本文化は当然のことに弱々しいはず、もし強いとしても弱々しさを逆手にとっての強さでなくてはなるまい。」

そして、松岡正剛氏は、本書の中で、

「「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、繊細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあわわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。」

と書いていて、従来かえりみられることの少なかった「弱さ」が現代社会にとって持つ意味を、広範な事例から見つけ出し、魅力的な文体でそっと僕らにさしだしてくれる。

何度かの大震災、近年の異常気象による様々な災害を前にして、人間の無力を思うことが多いけれど、この本はその「無力さ」ゆえの人間の価値や尊厳について教えてくれて、時に僕らの認識にコペルニクス的な転換をもたらしてくれる。

そういえば、最近僕がとてもひかれているアール・ブリュットの絵画もやはりフラジャイルな存在から生まれた絵画だし、今聴いている「マタイ受難曲」の中のキリストも徹底的にフラジャイルな存在だなあ。

時代が今「フラジャイル」の価値を求めているような予感がするのだ。

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

松岡 正剛/筑摩書房

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by maru33340 | 2014-03-10 22:14 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)
2014年 03月 05日

「生きるとは翻訳すること」~『翻訳教育』(野崎歓著)のことなど~

最近海外からのお客様に僕の勤務する館の展示説明をする機会が増えて、多いときは月に数回その機会がある。

国籍も、中国、韓国、ベトナム、スペイン等々多岐にわたる。

その際に、今巷で騒がれているような感情的なしこりは(僕が知る限りは)全くなく、皆さんとても熱心に説明に耳を傾けてくれる。

その熱心な姿勢にも驚くのだけれど、何より同時通訳をしてくれる人たちの力量に感心することしきりだ。

一日本企業の歴史や文化、そのこだわりについて説明するわけだから、そんなに簡単に右から左に訳せるわけではないだろうに、来館者の反応や質問を見ていると、実に的確にこちらの言いたいことが伝わっていることがわかる。

企業理念や危機を迎えた時に企業がどのようにイノベーションを行ってきたかという内容が、言葉の壁を越えて伝わっていくのを見ると、「世界は一つなのかも知れない」とその可能性(実際には世界各地で激しい紛争があることはわかっていても)を少し信じたい気持ちになる。

そんなことを思いながら、野崎歓さんの翻訳を巡るエッセイ『翻訳教育』(河出書房新社)を読了し、実に面白かった。

自らの翻訳にまつわる個人史を語りながら、話はいつしか「翻訳とは何か」という本質に戻ってくる。

その行きつ戻りつの呼吸がなんとも絶妙で、一気に読めてしまう。

しかし、その軽やかな装いに潜む翻訳への射程は、広くまた深い。

「生きるとは翻訳すること」という言葉の意味が次第にわかってくる出色のエッセイだった。


翻訳教育

野崎 歓/河出書房新社

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by maru33340 | 2014-03-05 22:33 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)