新・クラシック音楽と本さえあれば

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2014年 05月 29日

静岡で最高のモーツァルトを聴く

今夜は静岡のAOI ホールで最高のモーツァルトを聴いた。

演奏は、シュテファン・ヴラダー(指揮、ピアノ)、ウィーン・カンマー・オーケストラ。

曲目は、モーツァルトのディヴェルティメントK.136、ピアノ協奏曲20番、交響曲41番《ジュピター》

最初のディヴェルティメントが始まった瞬間に、ただごとならぬ素晴らしい演奏が始まったと驚く。

その演奏は、生気に満ち、しなやかで歌心に溢れ、今、目の前で音楽が泡立つように生まれている瞬間に立ち会っている悦びに満たされる。

モーツァルトの喜悦をこんなにまで感じるのは初めての体験だ。

続く指揮者の弾き振りによるピアノ協奏曲もまた、溌剌とした音色の合間に、時折ふとテンポを落とす時のやるせない表情が、明るい空に突然現れた一掃けの雲のように翳り、深い陰影を感じさせる名演。

最後はジュピター。
冒頭から祝祭的な悦びに満ち、一音一音が生き生きと泡立つ様は、上質のシャンパンの泡を見ているよう。
この曲が長く名曲と言われてきた理由を初めて心の底から納得する。

演奏終了後、何十年ぶりかに思わずブラボーと叫んでしまった。
そして、叫ばずにはいられない衝動が、まだ自分の中に眠っていたことに驚いた。

「生きるとは、モーツァルトを聴くこと」
そんな事を本当に思った。
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by maru33340 | 2014-05-29 22:49 | お勧めの本 | Trackback | Comments(5)
2014年 05月 28日

歯痛とグルダと音楽と

歯痛は収まらず、おそらく歯茎の炎症が原因と思われる微熱があり、身体が怠い。
今日は早めに帰宅し、片方の頬でお鮨を少しずつ食べて休息。
(暖かい食べ物は沁みて痛むのだ・・・)

テレビで、石原某や橋下某の人相の悪い顔を見ていると一層具合が悪くなるので、テレビは早々に消して、部屋の灯りも落として、会社のクラシック友達が貸してくれたグルダの演奏によるバッハのイタリア協奏曲やモーツアルトのピアノ・ソナタ15番が入ったCDを聴く。

イタリア協奏曲は、バッハの音楽の中でも飛び切り明るく軽やかな曲なので、今の僕にはふさわしい曲と選択してくれたのだろう。
グルダは、この美しい曲を一層軽やかで澄み渡った音色で演奏していて、まさに一陣の風が爽やかに頬を吹きすぎるよう。
聴いていると一瞬身体の怠さを忘れそうになる。
(現実には、物憂く痛みは消えてはいないのだけれど・・・)

そして、バッハの音楽に続き、モーツアルトのピアノ・ソナタ15番が聴こえてくると、耳になじんだはずのその旋律が、軽やかに舞い踊る妖精のように聴こえて、知らず知らずの間に涙が出てくる。

音楽の慰めと良く言うけれど、このCDはまさに慰めに満ちた音楽なのだ。

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by maru33340 | 2014-05-28 20:13 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
2014年 05月 26日

歯が痛む休日、小池昌代の小説を読む

昨日からひどく歯が痛み、物が食べられなくなってしまった。

今日は休館日なので朝から歯医者に行った所、奥歯の周囲の歯茎が炎症を起こしているとのこと。

治療しても直ぐには痛みは治まらず、今日はロキソニンを飲み頬に冷えピタを貼りほぼ一日横になって本を読み過ごした。(大半は眠っていたけれど)

痛みがあるからあまり理屈っぽい本は読めないので、本棚から小池昌代の小説『転生回遊女』をひっぱりだし読む。

「舞台女優だった母を事故で亡くし、天涯孤独となった十七歳の桂子(かつらこ)が、突然現れた男に「あなたは役者をやるべきひとです。」と説得され、女優として生きていくことを決意する...
稽古が始まるまでの一ヶ月間、彼女は旅に出て様々な人々と出会い、別れ、やがて自らの足で歩み始める。」

詩人でもある作者の言葉の選び方は独特で魅力的。
ヒロインのどこかとらえどころのないたたずまいにもひかれるものがある。

最近珍しく続けて小説を読み、物語の持つ力を今更ながら感じ、一気に読了。

読み終えてふと気がつくと歯の痛みは嘘のように、消えて、はおりませんでしたが...
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by maru33340 | 2014-05-26 22:54 | 未分類 | Trackback | Comments(4)
2014年 05月 24日

梨木香歩の新しい小説『海うそ』(岩波書店)を読む

デビュー以来梨木香歩という小説家には注目している。
この作品『海うそ』は、東関東大震災以来初めての書き下ろし作品。

今週は、東京、大阪と行ったり来たりで少し疲労が蓄積してしまい、今日は終日横になって、時折昼寝しつつ、グールド演奏によるイタリヤ協奏曲を聴きながら、この小説を読了した。

内容は、
「昭和の初め,人文地理学の研究者,秋野は南九州の離島へ赴く.かつて修験道の霊山があったその島は,豊かで変化に富んだ自然の中に,無残にかき消された人びとの祈りの跡を抱いて,秋野を惹きつけた.そして,地図に残された「海うそ」という言葉に導かれ,彼は島をひたすら歩き,調査に打ち込む――.50年後,秋野は不思議な縁で,再び島を訪れる.
愛する人びとの死,アジア・太平洋戦争の破局,経済大国化の下で進む強引な開発…….いくつもの喪失を超えて,秋野が辿り着いた真実とは…」(岩波書店紹介より)

吟味された言葉、内省的な主人公、喪失と回復というテーマによるこの小説は、いつもの梨木香歩の小説のように多層的な意味が隠されていて、一読しただけではおそらくその全貌をつかむことは難しいけれど、その静かなたたずまいが、少し疲れた身体には心地よかった。

久しぶりに、読み終えて、周りの景色が少し違って見えるような小説を読んだ気がします。

海うそ

梨木 香歩/岩波書店

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by maru33340 | 2014-05-24 19:57 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)
2014年 05月 15日

グールドによるバッハ平均律を再発見する

出張先から掛川に帰る新幹線の中で、グールドによるバッハ平均律(第一集)を聴きながら随所に今まで気がつかなかった魅力をたくさん発見し驚いている。

これまでも折に触れてこの演奏を聴いてきたはずなのに、まるで初めて聴くような新鮮な悦びを感じる。

グールドの指から、ひとつひとつの音が輝きながら今生まれているような気配なのだ。

グールドは30年前になくなっているけれど、この演奏の中では日々新たに生まれ替わり僕らに新しい発見を与えてくれる。

まさに世阿弥の言う「命には終わりあり、能には果てあるべからず」なのかも知れないなあ。
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by maru33340 | 2014-05-15 22:12 | 未分類 | Trackback | Comments(6)
2014年 05月 13日

川端康成の眼

先日見た「川端康成と東山魁偉」展で、川端が愛した古美術を見てから「あやしゅうこそものぐるほしけれ」という程古美術に心ひかれて、日本橋の骨董街をさまよい歩き、また日本の古典が古美術に見えて仕方なくなってきた。

今日は東京に向かう新幹線の中でシューマンの交響曲を聴きながら川端の短編である「反橋・しぐれ・住吉・隅田川」を読んでいるうちに、随所で彼の深淵を見据えるような眼を感じて、寒気を感じた。

継母に育てられた秘密を持つ古美術商のその小説の主人公は、こんな感慨を語る。

「美術品、ことに古美術を見ておりますと、これを見ている時の自分だけがこの生につながっているような思いがいたします。そうでない時の自分は汚辱と悪逆と傷枯の生涯の果て、死のなかから微かに死にさからっていたに過ぎなかったような思いもいたします。」

川端の最後を知る僕らには昭和23年に書かれたこの言葉がまるで彼の遺書の中の言葉のように感じられるのだ。
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by maru33340 | 2014-05-13 19:53 | お勧めの本 | Trackback | Comments(6)
2014年 05月 07日

やがてその湖に波紋ひろがり

この所、アラウの弾くショバンのノクターンが気に入っていて、寝るまでの読書の時間に聴いている。

アラウは一音一音をゆっくりと、間合いを充分にとって、深呼吸をする時のように自然に身をゆだねるようにして演奏する。

最初の音が、次の音を呼び覚まし、その重なりはまた一つの対話のように次の旋律を生み、静かに高まり、消え入るように終わる。

それはまるで山奥の深く澄みわたった湖に投げ入れた小石の波紋が、また次の波紋を誘発し、ゆっくりと大きな模様を描くようにして重なり、やがて湖の奥に消えていくのを見ているよう。

そこでは、時間は止まり、しかし確かに今ここに自分は生きているのだと、心の底から思える至福に充たされる。

音楽は時間の芸術でありながら、ふとした刹那に、時間を超えた永遠の時に僕らを連れ去ろうとするのかも知れない...
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by maru33340 | 2014-05-07 21:37 | お勧めの本 | Trackback | Comments(5)
2014年 05月 06日

見ることと観ること

最近お茶に興味を持っている。

興味を持つと言っても、近所のお茶屋さんから安い茶碗と茶筅・茶杓を買ってきて、これまた一番安いお抹茶を全くの自己流でたてて飲んでいるだけである。

それでも不思議なもので、気分だけはお茶をたてているような錯覚におそわれるから不思議である。

そうなると茶碗や掛け軸、花や花篭を眺めていてもいままでとは違って見えてくる。

関心を持つと今まで目にも入らなかったものの姿に焦点があうようになってくるようだ。

今まで漠然と「見て」いたものに、関心を持ってフォーカスをあてると「観る」という言葉に近い感じがうっすらとする。

100年早いよ、と自分でもわかってはいるけれど、そんな風にものを見ていると、白洲正子さんの本も、一体今まで何を読んでいたのだろうと思うくらいに心にびんびんと響いてくる。

例えば青山二郎のことを書いたこんな文章。

「青山さんの骨董を見る目は、見というより観の字を当てるべきだろう。私は仏教の言葉にくわしくはないが、昔の坊さんたちは、座禅ばかりして瞑想にふけっていたわけではない。仏なり、極楽なり、人間の生死なりを観ずべく祈っていたのである。一心に太陽を想っていれば、暗夜に太陽は見えて来る。水を想っていれば必ず水が現れる。極楽が観たければ、極楽はまのあたり現出する。心の中で空想しているのではなく肉眼にはっきりととらえられるものであった。」

今までは漠然と読み過ごしてきたけれど、ここにはどうも観ることの奥義のようなものが書かれているのではないだろうか。

そんな気がする。
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by maru33340 | 2014-05-06 19:15 | お勧めの本 | Trackback | Comments(8)
2014年 05月 05日

五月の朝のフランク

五月になると樹々の緑の色が急に濃くなり、胸の奥がざわつくよう。

昨日までの爽やかな季候とは違い、今朝は今にも降りだしそうな雨模様の曇り空。

今朝は朝早く目覚めてしまい、友人から借りたセザール・フランクのピアノ曲を聴いている。

フランクでは、ヴァイオリン・ソナタや弦楽五重奏曲は聴いてきたけれど、ピアノ曲をきちんと聴いたのは初めて。

フォーレを思わせる息の長い美しい旋律は、瞑想的で澄んだ深く冷たい湖の底にゆっくりと沈んで行くような気持ちになる。

イエルク・デムスによる演奏は、端正で激することなく静かで美しい。

GW の合間とはいえ、僕の住むマンションは静かで人の気配はなく、朝の空気にフランクの音楽は染み入るように響いている。
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by maru33340 | 2014-05-05 05:45 | 未分類 | Trackback | Comments(3)