新・クラシック音楽と本さえあれば

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2015年 03月 31日

春はシューマン

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今日の静岡は初夏を思わせる陽気。

満開の桜も早くも風に吹かれて、ひとひらふたひらと舞い始めた。

桜は咲き始めも、満開の時期も良いけれど、こうして少し散り始めて、地面にその花びらが一二片落ちているのを眺めるのもとても風情がある。

風そよぐ
散るからこその
桜かな

などとつい詠んでみたくなるのは、この季節ならではの感情か。

そして、ブログ友の文章に誘われて、この所ご無沙汰だったシューマンの交響曲「春」(バーンスタイン指揮ウイーン・フィルの演奏を愛聴している)を聴いていると、その内側から吹き上がるような息吹に、冬の重たい空から解放されたヨーロッパの人々の春待つ気持ちの高揚が痛いほど伝わり、「ああ、こうして今年も春が巡ってきたのだ。」と感慨を覚えるのだ。
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by maru33340 | 2015-03-31 20:52 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
2015年 03月 27日

透明で、はかないものは

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勤め先の庭に咲く桜が五分咲き程に開いてきた。

少し寒い青空に浮かぶ薄い色は、白の中に薄紅色がうっすらと混じり、微妙な色彩の階調を見せる。

昔、谷崎の『細雪』が映画化された時、四姉妹が花見をするシーンでヘンデルの音楽が流れ、以来花を見るとしばしばその音楽が蘇る。

今朝は、エマ・カークビーの歌うイギリス17世紀の作曲家ダウランドの歌曲をぼんやり聴きながら、桜の花を思う。

その透明で微かに哀愁を帯びたはかない音楽の美しさが桜に良く似合う。
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by maru33340 | 2015-03-27 07:29 | 未分類 | Trackback | Comments(3)
2015年 03月 24日

花冷えの夜に聴くテノール

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静岡で一昨日開花した桜は、花冷えの今日もその花を増やし、青空に映える。

各地から桜の開花宣言が聞こえてくるこの季節は、どことなく華やぎを秘めていて、良く伸びるテノールによるアリアが聴きたくなり、先日入手したポーランド生まれのピョートル・ベチャワによるフランスオペラのアリアを集めた「THE FRENCH COLLECTION」(輸入盤)を聴き始めた。

マスネー、ベルリオーズ、グノー、ビゼーらのアリアを甘く、しかし爽やかに歌い上げる力量は素晴らしく、今メトで最も人気のテノールであることが納得出来る。

たまには何も考えず、風に舞う花のような歌に身をまかせるのも良いものだ。
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by maru33340 | 2015-03-24 20:55 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
2015年 03月 22日

菜の花と春雷

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すっかり暖かくなり静岡でも桜の開花宣言が出された今日の昼間、車で天竜浜名湖線の踏切を渡ろうとしたら線路沿いに一面の菜の花が咲いていた。

こちらに来て三度目の春になるけれど、こんなに見事な菜の花が咲くとは知らなかった。

夜には遠くから春雷も聞こえ、季節は一気に春に雪崩れ込んだよう。

季節の花や鳥の鳴き声、雲の形や色合いの変化によって感じる春の訪れに命の耀きを感じる気持ちが、年々強くなっているように思う。
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by maru33340 | 2015-03-22 21:35 | 未分類 | Trackback | Comments(4)
2015年 03月 18日

モーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」 重唱の尽きせぬ味わいのこと

モーツァルトのオペラではやはり「魔笛」が一番好きで、今は通勤の車の中でも、ゲオルク・ショルティー指揮によるきびきびとしていて美しい演奏を聴いている。

「魔笛」の次は、少し難しくて「ドン・ジョバンニ」か「フィガロ」か迷うところ。

「ドン・ジョバンニ」は凄いオペラだが、そうしばしば聴くわけにはいかないほどの闇に満ちている。

その点「フィガロ」には、ユーモアと楽しい歌と、ふとした翳りが美しい。

結局、この2つは同点2位ということになる。

さて、長くモーツァルトはこの3つのオペラがあればいいかなと思っていたけれど、今日ふとクレンペラー演奏による「コシ・ファン・トゥッテ」 を聴き始めて、このオペラの歌の半分以上をしめる重唱の素晴らしさに初めて気がついた。

二重唱、三重唱、四重唱、五重唱、そして登場人物全員による六重奏と、重唱曲は多彩で豊かな彩りに満ちている。

この特徴は、上記3つのオペラとは一線を画していて、全く違う楽しみを聴く者に与えてくれる。

おそらく舞台で見て、最も楽しいのは「コシ・ファン・トゥッテ」かも知れないと思うほど。

いやはや、何事も早合点せずに、思い込みを捨てて経験してみるものだと痛感しました。

モーツァルト:コジ・ファン・トゥッテ

プライス(マーガレット) / EMIミュージック・ジャパン


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by maru33340 | 2015-03-18 21:39 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
2015年 03月 17日

吉野弘の詩「夕焼け」のこと

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現代詩人で最も有名なのはやはり谷川俊太郎だろう。

次は、茨木のり子、吉野弘がそれに続くだすろうか。

先日本屋に寄った時に、その吉野弘の詩集が平台に陳列されていて、新刊かと思いきや1999年にハルキ文庫から発刊になった文庫であった。

どうも最近テレビ、新聞でその詩が紹介されて話題になっているよう。

春のように暖かった今日の夕焼けを見ながら、その詩人の「夕焼け」という詩を思い出した。

 夕焼け

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが座った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は座った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は座った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可愛想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて・・・。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で美しい夕焼けも見ないで。


この詩は平易な言葉で書かれているけれど、ひらがなの使い方や、言葉の繰り返し方などについて、何度も何度も推敲を重ねて、最終的に句読点一つにいたるまで、動かしようのない形に完成しているようだ。

この詩から受ける想いは、詩と言う形でしか表現することのできない想いなのだと思う。
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by maru33340 | 2015-03-17 20:32 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)
2015年 03月 16日

桜に似合う音楽は

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昨日、浜松国際ピアノアカデミーを聴き、若い演奏者の素晴らしい音楽に心満たされ掛川駅まで戻ったら、木造駅舎横の河津桜が満開であることに気づいた。

この土地に来て三度目の春を迎えるけれど、ここに河津桜が咲いていることは知らなかった。

花を眺めながら、この花に似合う音楽は何だろうと考え、そうだフォーレのピアノ五重奏、と思いいたり、聴き始める。

弦楽がさざなみのような波形をかたちどる上に、ピアノの音が桜の花びらのように舞い落ち、時間は永遠の様相を帯びる。

春という季節の華やぎと陰りをこれほど良くあらわしている音楽はあまりない。
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by maru33340 | 2015-03-16 09:25 | 未分類 | Trackback | Comments(3)
2015年 03月 14日

哀しみに寄り添う音楽 シューベルトのロザムンデのこと

少し早く目が覚めてしまい、ベッドに座りシューベルトの弦楽四重奏曲ロザムンデを聴いている。

今まで何度か聴いてきたけれど、その哀しみに満ちた美しさの真価を初めて知ったような気がする。

やはり、長く怖い音楽と感じていたピアノソナタ21番を初めて「わかった」と感じたことで、シューベルトの音楽に開眼したようだ。

このロザムンデでも、以前は少し怖かった、1楽章に常に流れているさざ波のような低音の旋律が今は優しい慰めの音楽に聴こえる。

それは彼方に聴こえる音楽ではなく、僕の心に静かに寄り添い、何も言わず佇んでいて、同じ所を見つめてくれているような音楽だ。

そのほの暗い響きが、何と深く心に滲みいることか。
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by maru33340 | 2015-03-14 06:37 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(6)
2015年 03月 09日

こういう時代に詩を読むこと

詩人井坂洋子の新刊『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)を読了した。

その「あとがき」で、著者の知り合いの詩人が東京六大学の一つの学校に「詩を読む」という講義をしにいったときに、二百人ほどいた聴講生のうち、谷川俊太郎を識っている大学生が皆無だったというエピソードがあり、「いくらなんでもそれは・・・」と思ったけれど、「そうなのかも知れないなあ」と思い返した。

このエッセイでは、主に「現代詩」と呼ばれている詩人の作品が紹介されているけれど、確かにそれは、現代音楽や現代美術と同じくらい、もしかすると「絶滅危惧種」に近い存在なのかも知れない。

「この時代に、ほんとうに詩は必要なのか?」と静かに心に問いかけた時、答えに困る自分がいることは確かだけれど、どこかに「こんな時代だからこそ、詩はそれを必要とする人にとってかけがえのないものであるかも知れない。」という気持ちもある。

例えば、19世紀のアメリカの詩人エミリ・ディキンソンのこんな詩は、それを読む人の心を静かに慰めるのではないか。

 ひとつの心がこわれるのを止められるのなら
 わたしが生きることは無駄ではない
 ひとつのいのちのうずきを軽くできるのなら
 ひとつの痛みを鎮められるのなら

 弱っている一羽の駒鳥を
 もういちど巣に戻してやれるなら
 わたしが生きているのは無駄ではない

詩はあなたの隣にいる (単行本)

井坂 洋子 / 筑摩書房


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by maru33340 | 2015-03-09 21:26 | お勧めの本 | Trackback | Comments(6)
2015年 03月 02日

吉田健一の『汽車旅の酒』のこと

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昨日から出張で奈良に来ていて、そうなると宿は自然に京都になるので、鞄にはやはり吉田健一のエッセイが入っていなければ落ち着かない。

ちょうど中公文庫から、吉田健一の旅と酒をめぐるエッセイを集めて再編集した『汽車旅の酒』が出たばかりだったのは幸いだったから、読みながら新幹線で西に向かっているとそれが仕事であることをつい忘れそうになる。

例えばこんな文章。

「旅も同じことで、見知らない場所に行くのも楽しいものであり、その為に旅をするのだと考えられなくもないが、それとは別に、旅を少しばかりハシゴ酒の範囲を広くしたものと見ることも許されて、これは移動するのに掛ける時間が長い上に、着いた場所で飲む時間も長くてこれに景色や人情の変化が伴うから、この楽しみに浸りたければ、勝手を知った町から町へと、汽車もなるべく頭を悩まさない為に同じ時間のを選んで渡り歩くのに越したことはない。」

僕も京都に来る旅に訪れる路地裏の小さなカウンターだけのバーが一軒あり、そこでマスターとよもやま話をしていると、半年や一年ぶりという気がしなくて毎晩そこに通っているように思われ、そこには悠久の時間が流れているように感じるのは、確かに京都に来ることの大きな喜びの一つになっている。
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by maru33340 | 2015-03-02 09:16 | 未分類 | Trackback | Comments(3)