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2015年 04月 30日

イザベル・ファウストのバッハ無伴奏

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この所、集中してハイドンとモーツァルトの弦楽四重奏曲を聴いてきたけれど、今朝はふと、イザベル・ファウストのバッハ無伴奏バイオリンソナタ&パルティータ集が聴きたくなり、聴き始めたら、その自由闊達な語り口に改めて魅了された。

今までも、この演奏はモダンバイオリンによる演奏なのにどうも不思議な音色がするなあと思いながら聴いていたけれど、それはピリオド奏法による演奏だからで、少し早めのさらっとした自然なフレージングに耳が馴染んでくると、聴くにつれ身体の奥底が緩んでくるようだ。

有名なシャコンヌも、息を詰め集中の限りを尽くして最初の一音を弾き始めるのではなく、実にさらりと、まるで偶然弦を弓にあてて鳴り出したかのように始まり、この曲が舞曲であったことを思い出す。

録音も良く、大変気持ちの良いバッハを久し振りに堪能しました。
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by maru33340 | 2015-04-30 07:44 | 未分類 | Trackback | Comments(4)
2015年 04月 28日

ハイドン(実はホフシュテッター)作曲の「セレナーデ」のこと

最近の僕のマイブームである「第二期弦楽四重奏曲の時代」の火付け役は先のブログにも書いたように丸谷才一さんの小説『持ち重りのする薔薇の花』。

その小説の中で何度か言及され、聴きたいと思っていた、長くハイドン作曲と言われていたけれど、実はホフシュテッター作曲であると言う「セレナーデ」(演奏はアルバン・ベルク弦楽四重奏団)を聴いて「あらら、これは大変良く知っている曲ではないか」とびっくり。

たおやかで親しみやすく流麗なその旋律は、おそらく誰もが一度は聴いたことがあるはず。

しかし、改めて聴いてみると、本当に素朴だけれど、聴いていて訳もなく涙が出そうになるほど美しく、忘れることが出来ない程の名旋律である。

思わず「この時代にこれだけ美しい音楽があるなら、ロマン派以降の音楽の存在意義って一体どこにあるんだろう。」とさえ思ってしまうほどに。

ハイドン:弦楽四重奏曲第76番「五度」、同第77番「皇帝」、同第78番「日の出」

アルバン・ベルク四重奏団 / EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)


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by maru33340 | 2015-04-28 22:12 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
2015年 04月 27日

ハイドンの清潔

丸谷才一さんの『持ち重りする薔薇の花』を読んでから、モーツァルトの弦楽四重奏曲を聴き続け、僕にとっての「第二期弦楽四重奏曲ブーム」が来ていて、そこから、ハイドンの弦楽四重奏曲に移るのは、いわば必然なので、ウエストミンスターのウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団による4枚のハイドンを聴きだした。

どれを聴いても、随所にハイドンの機知を感じ、その清潔な音楽は純粋に美しい。

ふと、吉田秀和さんがハイドンについて書いた文章を思い出して探してみたら、そこにはハイドンについて僕が感じ始めたことがすべて書かれていた。

こんな文章。

「(ハイドンの音楽は)すっきりとしていて、無駄がない。どこをとっても生き生きしている。いうことのすべてに、透明な知性の裏付けが感じられ、しかもちっとも冷たいところがない。うそがない。誇張がない。それでいて、ユーモアがある。ユーモアがあるのは、この音楽が知的で、感情におぼれる危険に陥らずにいるからなのだが、それと同じくらい、心情のこまやかさがあるからでもある。」

これに付け加えることは、何もない。

ただその美しい澄みわたった音楽を聴くことだけでいい。
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by maru33340 | 2015-04-27 07:55 | 未分類 | Trackback | Comments(3)
2015年 04月 24日

本を持たない新幹線の中

今日は日帰りの東京出張。

新幹線の中の楽しみは、何より音楽を聴きながら本を読むこと。

しかし、今日は鞄に昨夜用意した本(丸谷才一さんの『笹まくら』)を入れ忘れて途方にくれる。

ちょっとした移動でも本がないと落ち着かない活字中毒の僕にとって、本のない2時間はかなり厳しい。

やむなく、ウォークマンでモーツァルトの弦楽四重奏曲ハイドンセット(演奏はジュリアード弦楽四重奏団)を聴き始めた所、何度も聴いている曲なのに、集中して音楽だけを聴くしかないから、「ここが良く歌う第一主題、第二主題は少し弾むような旋律で色合いが変わっている。展開部は確かにモーツァルトとしては構築的で、バッハ・ハイドン研究の跡が見えるなあ。」などと随所に発見がある。

なるほど新幹線の中では「音楽を読む」という聴き方があったか、ということに今更ながら気づいたのは怪我の功名でありました。
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by maru33340 | 2015-04-24 08:51 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
2015年 04月 23日

朝靄とモーツァルト

朝起きると一面の朝靄。

しばらくソファに座りモーツァルトの初期の弦楽四重奏曲を聴いていると、いつのまにか靄は消えて、穏やかな春の陽射しが射し込み、あちらこちらから鶯やら雀の鳴き声が聴こえる。

モーツァルトのハイドンセットは本当に素晴らしい音楽だけれど、それ以前の一番から七番の弦楽四重奏曲も、簡潔で分かりやすく、それでいてふとした拍子に思わぬ深淵が待ち構えていたりして、繰返し聴いていて楽しく、これを聴くことが、最近の僕の起床時と寝る前の日課になっている。

演奏はやはりバリリ弦楽四重奏団の柔らかく親しみに満ちた音楽が、初期のモーツァルトにはぴったりだ。
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by maru33340 | 2015-04-23 07:46 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)
2015年 04月 21日

バリリのモーツアルト弦楽四重奏曲のこと

丸谷才一の最後の長編『持ち重りのする薔薇の花』が文庫になったので一気に読了する。

丸谷さんの小説だから、もう少しひねりを期待してしまうけれど、読み終えて無性に弦楽四重奏曲が聴きたくなり、頼んでいるハイドン(?)のセレナーデが届くまで、バリリ弦楽四重奏団の演奏するモーツァルト弦楽四重奏曲を聴きかえしたら、そのあまりに懐かしく美しい響きに涙が出そうになってきた。

そこには、現代の演奏からは聴くことが出来なくなってしまった調和と親しみがあり、常に微笑みを絶やさないモーツァルトの姿がある。

この所天候が不順で、何となく気分も沈みがちだけれど、バリリのモーツァルトを聴いていると「この世の中には確かに美しいものが存在する」ということを思い出して、少しだけ気分も晴れるような気がする。
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by maru33340 | 2015-04-21 07:27 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(5)
2015年 04月 19日

言葉以前のこと

静岡では桜はもう終わってしまったけれども、東北は今が桜の盛りだと友人の便りで知る。

年々桜が咲くのを心待ちにし、飽かず眺める時間が増えてくる。

『生きのびろ、ことば』という詩を巡るエッセイ集におさめられた小池昌代の「言葉以前」という文章を読んでいたら、同じようなことが書かれていて、人が自然に慰められるのは「自然には言葉がないからだ」とあった。

更にこんな風に。

「言葉に傷つき、言葉によって包囲されている人間にとって、言葉のない世界=自然界の豊かさが、生きていくうえで、絶対的に必要なものであるけれども、詩を書くことで、わたしは、言葉と言葉のない世界の、相互の感応、照らしあいを常に眺めてきたような気がする。
言葉は、その根っこを、言葉のない世界に、深く浸している。その根を持たない言葉は、ただの浮遊する記号となってしまう。」

この文章の「詩」という言葉を、「音楽」に置き換えれば、そのまま音楽の持つ秘密を語る言葉になるようだ。
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by maru33340 | 2015-04-19 20:49 | 未分類 | Trackback | Comments(4)
2015年 04月 10日

透明な孤愁 谷川俊太郎とバッハのこと

現代詩のアンソロジーである『やさしい現代詩』を読んでいて、大岡誠が谷川俊太郎の詩に就いて「自分はあるいは、地球と呼ばれるこの宇宙の片隅の渺たる惑星へ置き去りにされた、別の天体のみなし児ではないのか、とでも言いたげな孤愁が、この詩人の孤独と哀しみの原質なのだ」とのべていることを知る。

ここ数日谷川俊太郎の詩を何編か読み、まさにその通りなので、いままで何を読んでいたのだろうと少し愕然としながら、改めてその詩集を読み返さなくては、と思った。

そして突然、この詩人の、「宇宙にひとり置き去りにされたような孤愁」はバッハの音楽にも通じるものではないか、と思いいたり、少し久しぶりに、エマールによる「平均律」第一集を聴きだした。

その最初の前奏曲が鳴り始めたとたんに、バッハの音楽に満ちている清潔で透明な孤愁に、心に静かに美しく冷たく澄んだ水が満ちてくるような感慨を覚えて、胸がいっぱいになった。
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by maru33340 | 2015-04-10 07:12 | 未分類 | Trackback | Comments(5)
2015年 04月 08日

谷川俊太郎の詩「朝」のこと

桜を眺め、落ちた花びらが冷たい雨に濡れているのを眺めている間に、昨日ひとつ年を重ねた。

そんな昨日は多くの学校で入学式が行われたようで、今朝の新聞で紹介されていた京都大学・山極総長の今年の入学式式辞を読んだ。

その挨拶はとても素晴らしいものだったけれど、特に最後に引用された谷川俊太郎の詩「朝」が心に残った。

ここには悠久の時間と、無限に広がる青空が広がっていて、微かな哀しみと共に、不思議に満ち足りた気持ちを感じる。

その詩の全文を引用します。


「朝」

また朝が来て僕は生きていた
夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の裸の枝が風にゆれ
首輪のない犬が陽だまりに寝そべってるのを

百年前ぼくはここにいなかった
百年後ぼくはここにいないだろう
あたり前の所のようでいて
地上はきっと思いがけない場所なんだ

いつだったか子宮の中で
ぼくは小さな小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって
それから小さな小さな鳥になって

それからやっとぼくは人間になった
十ヶ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ
今まで予習ばっかりしすぎたから

今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
僕を殺すかもしれないけものとすら
その水をわかちあいたい
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by maru33340 | 2015-04-08 23:19 | お勧めの本 | Trackback | Comments(5)
2015年 04月 03日

雨降りの春の朝 ダウランドのリュート音楽を聴くこと

今日は朝から冷たい雨。

早くも散り始めた桜も、舗道で雨に濡れているだろう。

そういう朝の愁いには、ダウランドの静かなリュート音楽が良く似合う。

その音は、そぼふる雨のように静かに心に染み入る。
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by maru33340 | 2015-04-03 08:04 | 未分類 | Trackback | Comments(3)