新・クラシック音楽と本さえあれば

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2015年 11月 26日

原節子さん逝く

この数年、いつかはこの日がやって来ると覚悟はしていた。

原節子さんが、今年の9月5日に亡くなっていたとの報を昨夜知った。

最後まで「世間を騒がせない」という彼女の生き方を貫いた姿勢に、如何にもと思う。

しかし、同時に42歳での突然の引退から95歳で逝くまで50年以上の間、世間の好奇の眼から頑として逃れ続けた事に、彼女の孤独と女優という職業の業を感じる。

今頃は小津安二郎と好きだったビールを飲みながら、
「節ちゃん、随分遅かったじゃないか」
「監督が早すぎたのよ」
「そうかい」
「そうよ」
「まあ、一杯」
なんて会話をしている所に、笠智衆さんが帽子を取りながら、
「いやあ、お久しぶり」
なんて加わって、三人で森繁さんの悪口なんか言ってるかもしれないなあ。

さよなら、原節子さん。
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by maru33340 | 2015-11-26 07:47 | 未分類 | Trackback | Comments(4)
2015年 11月 14日

モーツァルトとヴァトー、精神の双子について

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通勤の車の中で再びモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」を聴いている。

この曲を聴くと何故かいつもヴァトーの絵画を思い出す。

この二人は、共に18世紀に活躍した芸術家で、その生涯は重なっていないけれど、なんとなく同時代の人というイメージが強い。

二人とも早逝の芸術家(ヴァトーが37歳で、モーツァルトが35歳)で、その一見軽やかにして華やかでありながら、ふとした拍子に一抹の影がよぎるような作風に共通点を感じるからかも知れない。

そんなことを思いながら、今日、高階秀爾氏の古典的名著『美の思索家たち』の中の『芸術と魂』(ルネ・ユイグ著)の紹介文を読んでいて、ルネ・ユイグによるヴァトー論に出会った。

彼は、ヴァトーについてこんな風に書いている。

「たしかにヴァトーは、生命を発見し、そして夢と愛との延長としてその生命をあらゆる喜びの中でもっとも霊妙でもっとも戦慄に満ちたものとして受け入れているゆえに、深い歓喜の存在である。
しかし同時にまた彼は、その生命がはかなくもろいものであることを知っており、みずから生み出したものをほとんどただちに、まるでじっと見つめる視線のもとでつるべ落としに地平線に沈んで行く夕陽のようにすみやかに破壊するものであることを感じ取っているがゆえに、深い悲哀の存在でもある。
永遠の詩情に溢れる言葉は、そのことを何よりもよく表現しているのではないだろうか。事実≪薄明≫という言葉は、同時に暁方と夕暮れを意味しており、ヴァトーの世界のように、朝の喜びと黄昏の悲しみとを表しているのである・・・。」

このヴァトー評は、そっくりそのままモーツァルトの音楽の特質にあてはまるようだ。

18世紀に生きた二人は、やはり精神の双子と言えるのかも知れない。
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by maru33340 | 2015-11-14 22:11 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
2015年 11月 11日

朝のマタイ

東京に向かう朝一番の新幹線の中で、ヘレヴェッヘ指揮によるマタイ受難曲(1984年録音)を聴いている。

最近はこの演奏が気に入っていて、家でも繰り返し聴く。

古楽器による演奏で、テンポは早く、余計な感傷は廃したスッキリした演奏だけど、柔らかな情感に満ちたとても美しい響きが、まるで上質の陶磁器を見るような味わい。

独唱もコーラスも、イエスの受難を静かに受けとめ、声高になることなく、しかし深い共感を持って歌われる。

リヒターの峻厳、クレンペラーの孤高、レオンハルトの清潔とはまた違った、親しみがあり優しく聴くものの心に静かに寄りそうようなこの演奏は、聴き終えたとたんにもう一度聴き返したくなる魅力に満ちている。

日々の現実のなかで、何ともやりきれぬ苦い思いで胸が塞がるような夜は、この演奏に慰められ、また頭を上げて 歩き出さなくてはという気持ちになれるようだ。
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by maru33340 | 2015-11-11 07:43 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(3)