新・クラシック音楽と本さえあれば

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2016年 02月 22日

マーラーからの呼び声


マーラーを集中的に聴いていたのは20歳前後の頃。

レコードでも聴き、コンサートにも随分通った。
今は亡き山田一雄や若杉弘の演奏会に涙し、来日したバーンスタインのマーラー交響曲9番を聴くために、新入社員の身ながら会社を早退してNHKホールに通ったのも懐かしい想い出。

あれから30数年がたち、最近はバッハ三昧の毎日で、もうマーラーを聴くこともないかもなあ、なんて思っていたけれど、ある人のブログでマーラー交響曲7番を紹介しているのを読み、何気なく聴いてみたくなった。

演奏は、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの交響曲全集で。

そこから、一気に時間が後戻りしたようにマーラーが身体に染み入るように聴こえてきた。

7番、6番、9番、10番…どれを聴いても面白く、まるで音楽が自分の身体の内側から沸き上がるような気がする。

明日から四国への出張。

その旅はマーラーの交響曲と同行二人、遍路のように歩くことになるだろう。

Bernstein: Mahler Symphonies

Leonard Bernstein / Sony Import


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by maru33340 | 2016-02-22 22:01 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
2016年 02月 10日

そうか、それは散文詩だったのだ

この数日眠る前に読んで、しかし何故かいつの間にか眠ってしまうので話がつながらないなあと思いながらも、懲りずに毎晩読んでいる堀江敏幸氏の新刊『その姿の消し方』について友人がブログに書いているのを読み、「そうか、それは散文詩だったのだ」と気づいたのが、決して遅すぎるとは思わないものの、随分うかつだったなと感じたのが今朝のことだった。

例えばこんな文章。

「消えた光景、消えた人物、消えた言葉は、最初からなかったことになる。以前はそんなふうに考えていた。しかし欠落した部分は永遠に欠けたままではなく、継続的に感じとられる他の人々の気配によって補完できるのではないかといまは思いはじめている。視覚がとらえた一枚の画像の色の濃淡、光の強弱が、不在をむしろ「そこにあった存在」として際立たせる。」

わかるかわからないかと問われたら「わかるような、わからないような」と答えるしかない文章だけれど、それこそが詩に他ならないのだろうと、今は思うのだ。
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by maru33340 | 2016-02-10 22:45 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)
2016年 02月 07日

バッハのカンタータ全曲という険しい山に登るための道標として

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その山に登ろうという決意をする日が来るとは思ってもいなかった。

確かにバッハのカンタータ全曲を聴いてみたいと漠然と思うことはあったけれど、ヘルムート・リリング監修によるバッハ全集(172枚組)が信じられない程の安価でHMVから出ているのを見て、もうこの機会を逃したら一生全曲を聴くことはないだろうと思い定め入手した。

以来、カンタータBWV1から始めて少しずつ聴きはじめて、ようやくBWV29までたどり着いた。

この全集ではカンタータはBWV215まであるから、山登りならまだ1合目を少し越えたあたりか。

しかし、今の所どの曲も美しく楽しく、お気に入りの曲もいくつも見つかった。(BWV4、12、21等々)

その山に登るための道標となる対訳(「対訳J.S.バッハ声楽全集」)も手元に置きながら、遭難しないように少しずつその山を登っていけたらと思う。
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by maru33340 | 2016-02-07 17:09 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(2)
2016年 02月 06日

カウンターテナーによるバッハのカンタータは

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ヘレヴェッヘによるソロ・カンタータ集にはアルトによるカンタータをまとめた1枚も収められている。

アルトパートを歌うのは、カウンターテナーのアンドレアス・ショル(写真)。

ショルの声は本当に美しく、艶やかで伸びやかな声であるのに加えて音程が確かだから、聴いていて気持ちが晴れやかになりいつまでもその歌に浸っていたくなる。

そして、普段は女性のパートを男性が歌っていることによる微かに耽美的な官能性が漂う。

バスのソロによるカンタータでも感じる官能性は、経験なプロテスタントであるバッハの宗教曲にふさわしいのかとも思うけれど、西洋の宗教画に見るマリア像に見られる恍惚の表情を思い出せば、それはあながち場違いな感情とは言えないかも知れない。
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by maru33340 | 2016-02-06 08:58 | クラシック音楽 | Trackback | Comments(4)
2016年 02月 04日

バスのためのカンタータ

バッハのマタイ受難曲やカンタータを聴いているとバスのパートの重要性に気がつく。

それはマタイで、イエスのパートを歌うのがバスの役割であることからもわかるので、単に男性の低い音域であるだけでなく、音楽を深い所で支える分別のある大人の男の落ち着きを期待される。

そしてそこに、ただ渋いだけではない、艶のある色気が加えれば言うことはない。

ヘレヴェッヘによる「バスのためのカンタータ集」のペーター・コーイはまさにそんな、渋さと色気を兼ね備えた理想のバスの声だ。

バスとしては少し高めの甘く優しい歌声は、宗教曲にそんな表現は少しふさわしくないかも知れないけれど、微かな官能性さえ感じさせる。

その声は、寒さの中にも少しずつ春の気配を感じる立春の夜更けにとても良く似合うのだ。
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by maru33340 | 2016-02-04 22:00 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)
2016年 02月 01日

ラテンの飲み方、ゲルマンの飲み方

今読んでいる鹿島茂さんの『パリ五段活用』は気楽に読めて、なるほどと膝を叩くような発見が随所にあり面白い。

昨夜から読んでいる「ヨーロッパのひとびとと酒」という話題にはこんなことが書いてある。

「ヨーロッパと一口に言っても、フランス、スペイン、イタリア、ギリシアといった地中海沿岸のカトリック・ラテンの国々と、イギリス、ドイツ、オランダなどのプロテスタント・ゲルマンの国々では様々な面でその行動様式がまったくといっていいほど異なっていて、酒を飲むということについてもこの二つのグループは対照的である。

飲む酒の種類は、前者がワイン文化であるのに対して、後者はビール文化圏である。

飲む場所は、前者がレストランないしは家庭で料理と一緒にワインを飲むのに対して、後者はビアホールやパブといったビール専門の酒場で、軽いおつまみだけでビールを飲む。

さらに、誰と飲むかでは、前者はごく親しい人(あるいは親しくなりたい人)と一緒にテーブルを囲んで同じ瓶のワインをみなで飲むが、後者はあくまで個人の資格で、バーテンダーにビールを一杯ずつ注文し、それから、常連の不特定多数の人たちと雑談を交わすのが普通である。」
(もちろん例外はあるけれど)

この違いを鹿島さんは、デズモンド・モリスのプロセミクス・ゾーン(対人関係での距離の取り方)の南北の相違で説明する。

いわく、
「人と人とが建ったり座ったりして話をするとき、地中海沿岸の人々は肘と肘とで触れ合えるほど距離、すなわち「肘ゾーン」で相手に接するのを好み、視線も相手の目をまともに凝視する「多視ゾーン」に属する。身振り手振りも大げさで、おしゃべり好きである。
いっぽう、北ヨーロッパ人は腕をいっぱいに伸ばしたとき、指先でかろうじて触れ合える程度の距離、つまり「指先ゾーン」で他人と接し、相手と直接に視線を交わすことを避ける「少視ゾーン」の文化圏に入る。身振り手振りは少なく、儀礼的な無関心を装う。」

ここからワインの飲み方とビールの飲み方が演繹出来る。
すなわち、
「「肘ゾーン」で相手に接し、相手の目をまともに凝視して、身振り手振りを交えて長時間もおしゃべりしなければ気がすまない地中海沿岸の人々たちが、一緒に酒を飲むとしたら、それは必然的に一つのテーブルを四、五人で囲んで一本のワインをゆっくりおしゃべりをしながら飲むことになる。
(ビールは当時は樽ビールしかなかったから、テーブルの真ん中におけないし、消化が早すぎて、長いおしゃべりに向かない)
逆に他人とは「指先ゾーン」でしか接しようとせず、凝視や身振り手振りを控え、寡黙を好む北ヨーロッパの人たちにとって、樽からジョッキに分けたビールというのは、相手との距離を保つのになかなかぴったりとした飲み物だった。ジョッキのビールは、北ヨーロッパの人々の望む淡い人間関係に最適な飲み物だったのだ。」

いさかか単純化した議論には違いないけれど、例えばテレビで「世界街歩き」のような番組を眺めていると「おおむねそうだなあ」と思えてくる。

まだまだこの本にはそうした話題が満載で、楽しめそう。

パリ五段活用 時間の迷宮都市を歩く (中公文庫)

鹿島 茂 / 中央公論新社


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by maru33340 | 2016-02-01 20:25 | お勧めの本 | Trackback | Comments(5)