今日は11月25日。
今から53年前の1970年11月25日、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯所に乱入し、「天皇陛下万歳」と叫んで自決した日だ。
僕は20歳の頃、突然三島由紀夫の文学にはまり、毎日取り憑かれたように、彼の小説や三島由紀夫論などを読んだ。
それはまさに熱病のようで、いつの間にかその熱は治まっていたけれど、今でも時々、三島論が出ると読んでいる。
特に11月25日が近づくと無性に三島由紀夫のことが頭をよぎる。
先日入手したのは、松本健一著による『三島由紀夫と司馬遼太郎』(新潮選書)。
2010年に刊行された本だけど未読の本で、日本橋の丸善の平台に並んでいたので、直ぐに手に取った。
僕は今年の夏頃から司馬遼太郎熱が再燃していたけれど、司馬さんと三島由紀夫を並べて論じた本は読んだことがなかった。
著者の松本健一も40年近く、この二人を並べて考えたことはなかったと語る。
しかし、あることをきっかけにこの本のあとがきのような結論に達したという。
「三島由紀夫と司馬遼太郎という二人の文学者は、ともに、1960年代の高度成長期の日本が経済至上主義に走り、ナショナル・アイデンティ(日本らしさ)を喪失していることに強い危機感をいだいていた。そして、かれら二人は経済至上主義的な経済大国とは別の、〈もう一つの日本〉を提示しようとしていた。」
著者は司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズが三島由紀夫の自決の翌年1971年に始まっていること、そして『街道をゆく』には〈天皇の物語がない〉ことに気が付き、この二人を戦後精神史の中で交錯させて考え始めたそうだ。
まだ本文は未読。
今日はこれから、松本健一の語る三島由紀夫と司馬遼太郎の精神の交錯地点を探る旅に出たいと思う。