2011年 08月 27日
死者たちの魂とともに
この胸苦しさの原因は何かと考えていて、昨日高野山奥の院を散策したからかも知れないと思いいたった。
高野山奥の院には、歴史上の死者が無数に眠っている。
信長、秀吉、光秀、三成ら、勝者も敗者も共に、ほの暗い木陰の中で苔むした五輪塔の下にひっそりと眠っている。
その墓の傍を歩きながら微かな胸の痛みを感じていた。
それは死者の魂の声であったのかも知れない。
そんなことを思いながら、辻原登のエッセイ『熊野でプルーストを読む』を読んでいたら、『失われた時を求めて』の中のこんな一節の引用に出会った。
「死によって奪い去られた者の魂は、なにか人間以下の存在、たとえば動物や、植物や、または無生物のなかにとらえられている。なるほどその魂は、私たちがたまたまその木のそばを通りかかり、これを封じこめているものを手に入れる日まで、多くの人にとってけっして訪れることのないこの日までは、私たちにとって失われたままだ。しかしその日になると、死者たちの魂は喜びに震えて私たちを呼び求め、こちらがそれを彼らだと認めるやいなや、たちまち呪いは破れる。私たちが解放した魂は死に打ち克って、ふたたび帰ってきて私たちといっしょに生きるのである。」
僕はどうやら、彼らの魂に呼び止められてしまったのかも知れない。
もっとも今日の吸血鬼映画と歌舞伎町の邪気に恐れをなして退散したようです(笑)