2013年 04月 22日
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹著、文藝春秋)をようやく読了する
しかし、なかなか読み進めることが出来ずにいた。
読みにくい小説ではない。
むしろ、推理小説のように少しずつ謎のヴェールがはがれるような手法は一気に読み通すことこそふさわしいのかも知れない。
だが、なんだろうか、主人公がこだわる過去の事件と自身の心の傷(その解明のために16年後に当事者達を訪ねる「巡礼の旅」に出かけるのだけれど)に共感することが難しかったからなのか、なかなか物語の中に入り込むことが出来なかった。
最後の120ページ位読み残していた昨夜、私事ながら心ふさぐ事件があって、今朝よんどころない事情で浜松に出かけなければならなくなり、その往復の列車の中で最後の部分を読んだ。
この小説では浜松という土地は、負の意味で重要な土地。
この小説を読みながら、僕もかつてこの土地に赴任していたころ、心傷つく出来事があったのを思い出した。(忘れようとして封印していたけれど)
そして、最初僕がこの小説を「読みにくい」と感じたのは、そんな自身の封印していた過去を思い起こさせられるような気がしたからだったと気づいた。
最後は一気に引き込まれて、電車を降りて少し残った数ページを愛野駅のホームのベンチに座って読んだ。
最後の一行、
「あとには白樺の木立を抜ける風の音だけが残った。」
という言葉に、やはりこの小説は、村上春樹特有の「喪失と再生の物語」の一番新しい形なのかもしれないという思いを持った。
そういうことに、そういう心の原風景に、時が経つにつれて気付いてゆく融解のような書、であるということでしょうか。