2014年 03月 23日
ドビュッシーそして大観
その文章の中で氏は、カティア・ブニアティシビィリとダニール・トリフォノの二人の若いピアニストについて「かれらの音は、ピアノのなかにもともとこもっていた音にかれらが触ったがために、音が起きだして鳴響となったように聞こえる。」と書いている。
氏は「ピアノという楽器を「音を出す装置」としてではなく「音に触る装置」としてとらえた時に、ピアニストとしての「私」は消えて、代わりに音が立っている」と書き、アンジェラ・ヒューイットをそうしたピアニストの系譜に位置づける。
そして、彼女の弾く、ドビュッシーのワルツ曲「レントより遅く」の官能性について、「ピアノを「音に触る装置」として扱わなくては実現しなかった音楽」と語るのを読んで、アンジェラ・ヒューイットの弾くドビュッシーアルバムを探し出して、聴いているうちに杉本の言葉の意味がなんとなくわかるような気がしてきた。
そこにはくっきりとした輪郭ではなく、まるで空気のようなアトモスフェアが漂い浮遊するような感覚に包まれる。
そうして、そのドビュッシーを聴きながら、僕は突然横山大観の絵画のことを思い出した。
特に「朦朧体」と呼ばれた時代の絵画の持つ空気に、アンジェラ・ヒューイットのドビュッシーはとても近いように感じるのだ。
ついでに大観の夜桜の画集も。。、こちらの朦朧体桜の作品、いいですねー。