2015年 05月 23日
西川美和の映画と本のこと、含羞と虚無の向こうにあるもの
「ゆれる」には衝撃を受けた。
何より香川照之の演技が凄かったし(その後テレビに出すぎてしまって今は少し食傷気味だけど)、真木よう子の虚無的な美しさが光っていた。
この数年の僕の日本映画のベスト3に入る。
「ディア・ドクター」は鶴瓶の役者としての凄みを実感した作品。
人懐っこい雰囲気の奥にあるこの人の怖さを引き出した西川美和の手腕に感心した覚えがある。
その西川美和の小説『永い言い訳』(文藝春秋)を先日読了した。
これは久しぶりにのめり込むように読んだ小説だった。
主人公は全く持ってダメな人間だし、最初はそのあまりのダメさ加減が嫌になって投げ出しそうになったけれど、60ページを過ぎたあたりから一気に物語の中にのめり込み、最後には涙が止まらなくなった。
随所に作者の透徹した苦いまなざしで見据えたような台詞がある。
例えば、
「踏み外したことのある人間にしか、言えない言葉もあるでしょう。そういうことばにしか引き止められないところに立っているやつも居るんです。ぎりぎりのとこで、肩掴まれて、やっと踏みとどまれる時ってあるもの。ああ、だったら僕も、逸れているなりに、なんとか、やってきますって」
このどこか虚無的な、それでもどこかで微かに人間という生き物に希望のようなものがあると信じているような視点に見覚えがあるような気がして、考えていて、「これは山田太一の視点だ」と気づいた。
そのことは続けて読んだ西川美和の初エッセイ『映画にまつわるXについて』(実業之日本社)を読んで確信に変わった。
群れることを生理的に嫌い、安易な正義に与せず、含羞に満ちて、虚無的で、それでいてその心の底には小さな希望を見ようとする硬質な意志があること。
だれもその作品を継ぐ者はないかと思っていた山田太一の遅れてきた継承者を西川美和に見てとるのは早計だろうか。