2015年 11月 14日
モーツァルトとヴァトー、精神の双子について
通勤の車の中で再びモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」を聴いている。
この曲を聴くと何故かいつもヴァトーの絵画を思い出す。
この二人は、共に18世紀に活躍した芸術家で、その生涯は重なっていないけれど、なんとなく同時代の人というイメージが強い。
二人とも早逝の芸術家(ヴァトーが37歳で、モーツァルトが35歳)で、その一見軽やかにして華やかでありながら、ふとした拍子に一抹の影がよぎるような作風に共通点を感じるからかも知れない。
そんなことを思いながら、今日、高階秀爾氏の古典的名著『美の思索家たち』の中の『芸術と魂』(ルネ・ユイグ著)の紹介文を読んでいて、ルネ・ユイグによるヴァトー論に出会った。
彼は、ヴァトーについてこんな風に書いている。
「たしかにヴァトーは、生命を発見し、そして夢と愛との延長としてその生命をあらゆる喜びの中でもっとも霊妙でもっとも戦慄に満ちたものとして受け入れているゆえに、深い歓喜の存在である。
しかし同時にまた彼は、その生命がはかなくもろいものであることを知っており、みずから生み出したものをほとんどただちに、まるでじっと見つめる視線のもとでつるべ落としに地平線に沈んで行く夕陽のようにすみやかに破壊するものであることを感じ取っているがゆえに、深い悲哀の存在でもある。
永遠の詩情に溢れる言葉は、そのことを何よりもよく表現しているのではないだろうか。事実≪薄明≫という言葉は、同時に暁方と夕暮れを意味しており、ヴァトーの世界のように、朝の喜びと黄昏の悲しみとを表しているのである・・・。」
このヴァトー評は、そっくりそのままモーツァルトの音楽の特質にあてはまるようだ。
18世紀に生きた二人は、やはり精神の双子と言えるのかも知れない。