鈴虫やチェンバロの音に競いけり
2015年 08月 28日
夜半から雨も降り続き、今朝もひんやりとしている。
眠る前にはラモーの「コンセール(合奏)のためのクラブサン曲集」を聴く。
これは、チェンバロを中心に、プルート、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバが伴奏する優雅で少し感傷的な音楽。
そこに、蝉に変わって鳴き出した鈴虫の声が、まるで合奏に加わるように聴こえて哀愁が増すよう。
新涼や胸に染み入るブラームス
2015年 08月 27日
過ぎた夏を惜しむように弱々しく鳴く蝉の声を聞きながら。
デュメイのヴァイオリンの音色は、憧れゆく魂が青空に飛翔するかのような耀きを放つ。
やはり秋にはブラームスがよく似合う。
台風の風おさまりて聴くフォーレ
2015年 08月 26日

眠ることが出来ず久しぶりにフォーレの室内楽を大きな音量でかけて過ごした。
演奏はエラートのヴィア・ノヴァ弦楽四重奏団やジャン・ユボーのピアノを中心にしたもの。
学生時代に何度も聴いた演奏なので、とても懐かしい。
激しい風の中聴くフォーレのアレグロ楽章は、風に立ち向かって一人歩み続ける孤独な人の趣きがあり、また違った味わい。
風のおさまった今朝はフォーレのヴァイオリン・ソナタを聴いている。
その半音階的な無限旋律が、青とグレーが混じる朝の空の色に良く似合う。
クープランbyタロー
2015年 08月 15日
そのピアノの音は至純にして華やかでありながら、どこか大理石の床のようにひんやりした感触。
このクープランの演奏も、聴いていると、いつしか周囲の風景は消えて、清潔な湖のほとりに一人たたずんでいるような寂しさに襲われる。
とても独創的でピアニスティックなクープラン演奏だから、正統的なバロック音楽のファンからは少し違うと思われるかも知れないけれど、モダンな美しさに満ちていて、僕は好きになった。
この人のピアノで、もう少しいろんな曲を聴いてみたいなあ。
クープランとラモー、清潔な音楽のこと
2015年 08月 14日
まさに「神」と言いたいスカルラッティー、詩情に満ちたドビュッシーとラヴェル。
モーツァルトでのふとしたためらいの気配。
バッハでは早めのテンポですっきりと。
録音は古いけれど、いずれ劣らぬ名演の数々を聴いているうちに、いつしか立秋も過ぎた。
今日が日中は暑さが戻ったけれど、それでも湿度は一時ほどではないし、朝窓を開けると、少し肌にひんやりとした空気が入り込んできて、秋の気配を感じる。
朝の涼しさにふさわしいのは、クープランやラモーらの清潔な音楽。
クープラン(1668-17339)とラモー(1683-1764)は、共にフランスバロック時代の作曲家。
その音楽は、洗練されていて機知に富んでいて、少し神秘的な雰囲気がある。
(その思わせぶりな表題のせいかも知れないけれど)
しかしながら、この二人の曲はぼんやりと聴いていれば良く似ていて、昔学生時代のクラシック音楽のサークルに在籍していた時に、この二人の曲の事を知っていれば、ランダムにかけて、「今のはどちらの曲でしょう?」なんて遊んでいたかも知れない。
ふと、この二人には面識があったのかな?という疑問が浮かんで少し調べてみたけれど、さっと見たところではそのことに言及している記事は見当たらない。
実際の所はどうなんだろう?
寝苦しい夜、夢をみる
2015年 08月 08日
ある地方都市。
熱狂的な祭で有名で、日本中から観光客が集まり、僕も観客の一人。
揃いのユニフォームを着た幾つものチームが踊りながら街を練り歩き、観客の投票でその優劣を競う。
祭を見ていた僕は、各チームに漂う疲労感と、その街のどこか荒んだ空気が気になった。
路地裏を歩いていると、一人の女性が青ざめた顔で道端に座り込み、僕の顔を見ると小声で「助けてください」という。
聞けばこの街では「祭りに参加しなければ人でない」ような空気が蔓延していて、特に若い人達は強制的に踊らされるといい、それを拒めば近所から家族にも圧力がかかるらしい。
僕は、祭の実行本部を見に行くが、そこにたむろしている委員たちに怪訝な顔で見られ「邪魔をするな」と追い払われる。
祭は暗い熱狂を秘めたまま、クライマックスを向かえ、路地にいた女性は実行委員に引きずられるようにして、祭の輪の中に戻されていった…
イギリス風吉田健一
2015年 08月 03日
こんな文章。
(少し健一風に翻訳)
「たいていの人にとっては、自分たちは結局死ななければならないのだと知っていても、そのために現在生きているという喜びの度合いが減るわけではなくて、詩人にとっては、やがてはしぼむ運命をもった花や、あまりにもはかなく過ぎ行く春をながめるとき、世の中が美しく見えるので、五月の自然の美しさも、これをながめているあいだにも美しさが失われていくことを知っているから、いよいよ詩人の心を動かす。」
その喜びをいつまでも味わうことが出来ないと知っているからこそ、ひとしおそれを愛惜するという感じ方が、いかにも吉田健一なんだなあ。