人気ブログランキング |

<   2018年 10月 ( 18 )   > この月の画像一覧

平成も残すところ後半年になりました

朝晩ぐっと冷え込んできて昼間との寒暖の差が激しい。

明日からもう11月。

本屋では来年の手帳やカレンダーのコーナーが目立つようになってきて、いよいよ年の暮れも近いなあと思う。

テレビのニュースでは来年の天皇陛下の退位(平成の終わり)まで後半年だと伝えている。

誠に畏れ多いことだけど、僕も来年4月末で定年になるので陛下の退位と時を同じゅうする。

僕が生まれたのは陛下がご結婚された昭和34年4月だから、まさにお二人と同時代を生きてきたのだなあ…という感慨を新たにする。

自らの越し方行く末を想うには色々まだ早すぎるけれど、一日一日を(あまり日々の小さなことに煩わされることなく)おおらかに愉しく自分らしく過ごしていきたいなあ…などと思う今日この頃、だったりします。
by maru33340 | 2018-10-31 20:28 | お勧めの本 | Trackback | Comments(6)

真摯で美しいバッハ

f0061531_827362.jpg

昨日、神保町のササキレコードさんで入手したエレーヌ・グリモーによる「バッハVSバッハ・トランスクライブド」を聴く。

バッハの作品と編曲作品を調性を軸に編集したグリモーらしい意欲的なプログラム。

その演奏は彼女の瞳のように真摯で真っ直ぐな美しさに満ちている。

グリモーはバッハについてこんな風に語っている。

「バッハは河の中の島のような存在で、時代の潮流がどの方向に流れようとも束縛のない自由さと動揺することのない確固とした立場を保ち続けています。」

その言葉はグリモー自身の生き方をも語っているようです。
by maru33340 | 2018-10-30 08:27 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

「資生堂書体」という遺伝子のこと

f0061531_1827513.jpg

「資生堂書体」という書体がある。

資生堂という会社の漢字の表記や広告、様々な展覧会のタイトルなどにも使われているこの書体は、画家の小村雪岱が基礎を作り資生堂を代表するデザイナー山名文夫によって完成された。

今でも資生堂の宣伝デザイン部門に配属された新人クリエイターは手書きで「資生堂書体」が書けるよう練習を重ねる。

面白いのはこの書体には、止めや払い、縦横のバランス、カーブの描き方などの基本的なルールはあるけれど、それは習字の教科書のようにそのままなぞるべきお手本ではなくて、基本ルールさえ守れば最終的な文字の形はデザイナーに委ねられているということだ。

つまりは書き手の数だけ「資生堂書体」がある。

ふと気がついたのだけれど、この事は先日引用した、福岡博士が遺伝子について書いていた事と極似している。

博士曰く、
「遺伝子は私たちを規定し、運命づけているように見えるけれど、それは楽譜の音符のように使う音の高さと長さを指定しているだけだ。つまり各細胞で使うべきミクロなパーツのカタログを与えているにすぎない」

時々僕は「資生堂書体」を説明する時に「この書体は資生堂の遺伝子を後世に伝えている」という説明をしていたのだけれど、それは生物学的にも正しい説明だったのかも知れません。

(*写真は資生堂公式フェイスブックより)
by maru33340 | 2018-10-28 18:27 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

身体が熱くなるバッハの無伴奏に出会う

f0061531_1751870.jpg

イタリアのヴァイオリニスト、ジュリアーノ・カルミニョーラによるバッハ無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータのCDが届いた。

この人の演奏は聴いたことがなかったけれど何日か前にジャケットの写真が気に入って頼んでいたもの。
(その風貌が数年前に亡くなった役者の夏八木勲を思わせる)

演奏はフレージングや間合いの点でかなり癖の強いもので好きな人と嫌いな人が別れるかも知れない。

僕は普段はナタン・ミルシテインやカール・ズスケなどどちらかと言えば外連味のない透明で清んだ水のような演奏を好んで聴いているので、最初はちょっと苦手な演奏かなと思いながら聴いていたけれど、聴き進むにつれ面白くなってきて、次第に前のめりになる。

バッハの無伴奏を聴いて興奮するのもおかしな話だけれど、聴いているとなんだか身体の内側が熱くなってくる。

まさにバッハの音楽が本来持っている自由を感じる演奏です。

by maru33340 | 2018-10-27 17:05 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

バッハの楽譜と遺伝子の関係

f0061531_7183520.jpg

福岡伸一博士の『動的平衡2』を読んでいたらこんな記述に出会った。

バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を様々な演奏(実演)で聴き比べていた博士は、その曲が演奏者によってまったく違う表情を見せるのを目の当たりにして、バッハの曲は演奏者に完全に委ねられていること、バッハの曲が本来的に自由さを求めていることに気づき、そのあり方はまた遺伝子と人間のあり方に似ていると気づく。

福岡博士はこんな風に書いている。

「遺伝子は私たちを規定し、運命づけているように見えるけれど、それは楽譜の音符のように使う音の高さと長さを指定しているだけだ。つまり各細胞で使うべきミクロなパーツのカタログを与えているにすぎない」

バッハの楽譜が演奏者に様々な演奏をする自由を許しているように、遺伝子もまた生命のあり方をがんじがらめに規定しているのではなく、人に「自由であれ」と語りかけているのかも知れない。

読みながら無性にグレン・グールドの弾く(最初の)「ゴルトベルク変奏曲」が聴きたくなった。
by maru33340 | 2018-10-27 07:18 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)

巨人と若者

f0061531_22383199.jpg

オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団ダニエル・バレンボイムのピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲1番を聴いている。

1967年録音とのことだからクレンペラー82歳、バレンボイム25歳の頃の録音。
オケのテンポは例によってクレンペラーのどっしりとした雄大なテンポ。
バレンボイムもそれに堂々と応じて美しいピアノを聴かせてくれる。

この曲を作曲した1798年ベートーヴェンはまだ29歳。
才気と自信に溢れた晴れやかな曲想が気持ち良いこの曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも特に好きな曲です。
(中でも3楽章が格別に)
by maru33340 | 2018-10-25 22:38 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)

オットー復帰する

f0061531_2039595.jpg

写真は「字が小さすぎて読めな~い!」けれど、オットー・クレンペラーのベートーヴェン交響曲全集の録音年を見ていたら3番と5番の交響曲は1959年の録音。

クレンペラーが寝タバコが原因で大火傷を負って九死に一生を得たのが1958年だから、交響曲全集の中でこの2曲は彼の復帰後の演奏ということなる。

そう思って聴くせいか3番は他の演奏にも増して足取りが遅く、時々このまま止まってしまうんじゃないかと思うほど。

破格にも程があります。
(好きな演奏だけど…)
by maru33340 | 2018-10-24 20:39 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

ベートーヴェンは難しい

f0061531_82845100.jpg

f0061531_8284539.jpg

友人のブログを読み、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番 作品131を聴き返したくなり、昨日いくつかの演奏を探しだした。

演奏はメロス弦楽四重奏団とバリリ弦楽四重奏団による2種類。

今までに何度か聴いてきて「好きな曲」だと思っていた。
いずれの演奏も美しい。

ただこの曲にはただ「美しい」だけではなく、何か大切な秘密を明かそうとしている気配があり、そのことを考え始めるとなかなか訳がわからなくなってくる。

第一に、この作品が何故作曲されたかがわからない。
更にベートーヴェン自身がこの曲について「いろいろな作品から寄せ集めた盗作品」と記されているのも謎だ。
そして七楽章構成というのも異様だ。

音楽評論家の吉井亜彦さんはこの曲についてこんな風に書いている。

「向こうからやってくる、一見するととりとめもない風体をした若くはない者と擦れ違った瞬間、ふと気がついたときには致命的なものにもなりかねない傷を負わされ、事の重大さをあらためて認識せざるをえなくなってしまう感じ」

ううん、わかるような気もするし、わからない気もする。

また、中村孝義はその著者『ベートーヴェン 器楽・室内楽宇宙』の中でアーノルト・シェーリング(1877―1941)のベートーヴェン観を紹介している。

シェーリングによると弦楽四重奏曲第14番には隠されたプログラムがあり、それがシェイクスピアの『ハムレット』だという。

その考えは同時代には「単なる主観的なファンタジー」と批判されたそうだけど(まあ、普通そう思われるだろう)、この曲には人をしてそうした考えを誘発する何かがあることは確かだ。

私もこれから少し、考えてみたいと思います。
by maru33340 | 2018-10-22 08:28 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

朝になって女が目を覚して床を出る

ある本を探していて吉田健一の『本当のような話』を見つけて何となく読み始め何度も読んでいるその冒頭の文章に陶然となる。

「朝になって女が目を覚して床を出る。その辺から話を始めてもいい訳である。そこは鎧戸とガラス窓を締めてレースのカーテンに重ねて濃紺の繻子のカーテンを夜になると張るのが東側の窓だけ繻子のカーテンの方が引いてあるのは女がそこを通して朝日が僅かに部屋に洩れて来るのを見るのを朝の楽しみの一つに数えていたからだった。この女の名前が民子というのだったことにする。別に理由があることではなくて、そのことで序に言うならばこの話そのものが何の表向きの根拠もなしにただ頭に浮かんだものなので従ってこれは或いは本当のことを書いているのかも知れない。」

この文章は意味というより音楽なので何度でも読みその度にあまりの美しさにため息が出る。
by maru33340 | 2018-10-21 20:13 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

日本喜劇映画の黄金時代

f0061531_19515797.jpg

風邪をひいてしまい何日か早退しつつ仕事をする。

帰宅してあまり重たくない本をと読み始めたのが、渥美清の『列車シリーズ』、フランキー堺の『旅行シリーズ』など日本の喜劇映画を撮った映画監督瀬川昌治による『乾杯!ごきげん映画人生』。

軽い語り口が楽しく今の体調にはピッタリだった。

1925年生まれの著者は戦前の学習院で三島由紀夫の後輩。
三島はまだ「青びょうたん」というあだ名で呼ばれるほどひ弱だったけれど、その文才で学内で有名だった。
当時の三島の、恩師には礼儀正しく、後輩には面倒見が良い優しい先輩という、少し意外な姿も楽しい。

そして、フランキー堺、森繁久彌、伴淳三郎、エノケン、鶴田浩二、三國連太郎、いかりや長介らの生き生きとした人間像が同時代を生きた人ならではの視点で、まるで目の前に本人がいるかのように語られる。

読めば読むほど、日本喜劇映画の王国時代はかくも賑やかでかくも楽しく人間的だったのかと少し羨ましいような気持ちになってきます。
by maru33340 | 2018-10-17 19:51 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)

音楽・本・映画などについての私的な感想


by maru33340
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る