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ドビュッシーのようなワーグナー

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後半生のドビュッシーはワーグナーに批判的だったけれど、若い頃の彼はワグネリアンだったのは良く知られている。
1880年代初期にはウィーンで《トリスタンとイゾルデ》を観劇し、かつそのスコアを所有して丸ごと暗記していたほど心酔していたとのこと。
彼の《ペレアスとメリザンド》もその手法においてワーグナーからの脱却を目指しているけれど、ライト・モティーフの使い方などワーグナーからの影響は大きい。

そんな《トリスタとイゾルデ》を室内楽版に編曲し、フランス語のナレーションとドイツ語の歌(イゾルデの部分)によりCD1枚分の長さに編集したアルバムを愛聴している。

フランス語のナレーションを担当しているのはフランスの名優ランベール・ウィルソン。間もなく公開される映画『パリに見いだされたピアニスト』にも出演している彼の語りとクリスティーヌ・シュヴェツェールのドイツ語によるイゾルデの歌は、不思議に違和感なく融合していて、まるでパリの小さな劇場で一夜の舞台を眺めているような気持ちになる。

この演奏を聴いているとワーグナーの音楽は、その重厚なイメージとは裏腹に室内楽的な透明感に満ちていることに気づかされて新鮮な悦びがあります。
# by maru33340 | 2019-08-31 08:14 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

ショパンの魂があるなら

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カティア・ブニアティシヴィリの弾くショパンを聴き返している。

これはとても素晴らしいショパンだ。

特にピアノ協奏曲第2番の終わった後、アルバムの最後に収められたマズルカ第13番は、最初のフレーズのどこか遠い宇宙の果てからひそやかに聴こえてくるような弱音に心奪われ、そのまま時間の彼方に連れ去られるような気持ちになる。

その音色は淡雪のように儚く透明で、もしショパンの魂というものがあるなら、この演奏を聴いている間はその魂にそっと触れているような甘美で少し怖いような感覚に充たされます。









# by maru33340 | 2019-08-29 05:40 | お勧めの本 | Trackback | Comments(4)

「1955年のマリア・カラス」

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1955年のマリア・カラス。
ルキノ・ヴィスコンティ、レナード・バーンスタインと共に。
この時カラスは32歳。
美しくそして凛々しく、まさに女王の気品と貫禄を備え、輝きに満ちている。
37歳のバーンスタイン、49歳のヴィスコンティを前にしてその存在感は圧倒的。
彼女の歌声を聴き返したくなる。

片岡義男さんなら、
「いつもの喫茶店で柚木康史はこの写真をテーマにして「1955年のマリア・カラス」という小説が書けるのではないかと思った」
とノートに書き始めるのではないかと僕は思った。
# by maru33340 | 2019-08-27 08:08 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)

素朴な琴

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今朝、新聞を取りに部屋を出たとき風が少し肌寒かった。
空を見上げれば青い空にうっすらと刷毛で描いたような白い雲が浮かぶ。
秋が来たのだ。
秋は僕が一年で最も好きな季節。
透明で少し淋しい気配が良い。

秋を歌った八木重吉(1898-1927)のこんな詩を思いだす。

素朴な琴

この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね
琴はしずかに鳴りいだすだろう
# by maru33340 | 2019-08-25 08:17 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

「ドビュッシーと私」

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昨日はドビュッシーの誕生日。
彼が生まれたのは1862年8月22日。
当時、日本はまだ江戸時代。
ということはドビュッシーの音楽は江戸から明治に移り変わる明治維新の時代の音楽ということになるから、いかにその音楽が革新的で清新な音楽だったかということを改めて思う。

僕が初めてドビュッシーの音楽を聴いたのは1974年。
まだ高校生だった。
その年冨田勲のシンセサイザーによるアルバムが発売され大きな話題になっていた。
ちょうど4チャンネルのステレオがブームでその効果を最大限に生かすことの出来るアルバムだと何かで読み小遣いを貯めて入手した。
おそらくそれが僕がクラシック音楽というものを意識した最初の出会いだったと思う。

シンセサイザーによる「月の光」は、まるで光の粒が音になり部屋中に煌めくような輝きに溢れていて、僕はすっかりその世界に魅せられた…

あれから45年の月日が流れ、今でもドビュッシーの音楽は僕を魅了してやまない。

今朝はモニク・アースのピアノによる端正で清潔なドビュッシーの演奏を聴きながらドビュッシーの157回目の誕生日を祝っています。
# by maru33340 | 2019-08-23 08:18 | お勧めの本 | Trackback | Comments(2)

オーウェルからジャレットへ

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ジョージ・オーウェルの『1984年』は怖い小説で、僕は途中まで読み少し中断している。

それでもこの小説のことが頭から離れず、戦争についての本を読んでしまう。

もちろん戦争自体恐ろしいことだし、もしその時代に自分が生きていたらと思うと身震いがするけれど、僕らの父母の世代はその時代に子どもから大人になる時を過ごしている。

広島や長崎や沖縄だけでなく至るところで空襲があり、南方での悲惨な戦いがあったのは僕が生まれるわずか15年前に過ぎないのだ。

そして更に恐ろしいのは、自分がその時代に生きていたら、その「流れ」に果たしてNOと言えただろうか、その時代の「空気」にのまれてしまわなかっただろうか、それどころか自ら進んでその道を歩いていったのではないかと思ってしまうことだ。

夏風邪をひいてしまったようで、昨夜から頭痛が酷く今日は仕事を休んでしまったけれど、その原因の奥には、時代がまたあの頃に戻ってしまっていることへの怖さ、自分の不甲斐ない心への苛立ちがあり、生きる免疫力の減退を感じていることがあるのかも知れない。

そんなことを考えていたら眠れなくなってしまいキース・ジャレットのアルバム《The melody at night》を聴き始めた。

体調を崩し長いブランクから復帰し、自宅で収録したこのアルバムには、自分自身との対話のようなピアノ・ソロによるバラードが収められている。

このアルバムを聴いていると、命には限りあること、しかしそれゆえに、この今を生きていることへの感謝のような感情に次第に満たされ、少し心癒されるのでした。
# by maru33340 | 2019-08-21 23:38 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)

夏の終わりの音楽

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今日は朝から本格的な雨。

お盆を過ぎ、高校野球も終盤戦に近づくと毎年「ああ、夏が終わるのだなあ」という気持ちになるけれど、今年の猛暑もこの雨で一段落するだろうか。

こんな季節に聴くのにふさわしい音楽は何かと考え最近毎日のように聴いているのはラヴェルの歌曲《シェエラザード》。
演奏は、ジャネット・ベイカー(メゾ・ソプラノ)/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団/サー・ジョン・バルビローリ(指揮)によるアルバム。

ジャネット・ベイカーの深々としたビロードのような艶のある歌声とバルビローリの繊細で詩的な指揮が絶妙のバランスで、聴いていると桃源郷をそぞろ歩いているような幸福な心持ちになる。
東洋的な旋律であることもあり、ぼんやり聴いているとまるで《マダム・バタフライ》を聴いているような錯覚におちいる時もある。

カップリングのベルリオーズの《夏の夜》と共に、過ぎ行く夏の終わりに壮大な夕陽が沈み行くのを眺めている時のような深く甘美な哀しみに満たされる名演だと思います。
# by maru33340 | 2019-08-20 08:03 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)

「かき氷で酔ってみろ」

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今日は夏期休暇最終日。
長いと思っていた休みも過ぎてしまえばあっという間という感慨は毎年のことだ。
今日もことのほか暑いので午後からは部屋にこもり金曜日に(夕方から飲もうと友人と待ち合わせした)神保町の「東京堂書店」で入手した片岡義男の短編小説集を眺める。
この本は友人から「3階に片岡義男のサイン本が何冊かあるよ」と教えてもらい入手したもの。
茶色のMackeyのようなペンで横書きで書かれたその文字は、サインというよりイラストのように見えていかにも片岡義男の世界だ。
この本の最初の短編のタイトルは「かき氷で酔ってみろ」という(ちょっと意味がわからないけど)やはりいかにも片岡義男的なタイトル。
この本を鞄に入れ明るいうちから友人と神保町から神田の店を何軒かはしごして(かき氷ではなかったけど)ビールとハイボールで泥酔してしまったのは、このタイトルの暗示とあまりの暑さのせいだろうか。
# by maru33340 | 2019-08-18 15:25 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)

世界が『1984年』を模倣し始めたのだろうか

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今日は8月15日。

毎年8月15日(8年前のあの日以来3月11日もまた)が近づくと心ざわめき落ち着かない気持ちになる。

今日は台風も接近中とのことなので、終日家に引きこもり読書と決めていて、何年か前から読もうと思っていたジョージ・オーウェルの『1984年』を本棚から取り出した。

最近の社会情勢(トランプ登場以来の世界全体での不寛容の蔓延、愛知トリエンナーレでの少女像の展示中止を巡る一連の動き)などの報道を目にする程に「まるで世界が『1984年』という小説を模倣し始めているのでは…」という気持ちに襲われる。

小説の新訳文庫本の裏面には物語の概要が書かれている。

「舞台は"ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。
物語の主人公ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。
彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。
ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…」

まだ冒頭部分を読み始めたばかりだけど、ふと頭を挙げると何者かに見られているような気配を感じ少し寒気を感じます…
# by maru33340 | 2019-08-15 17:07 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)

『水ゼリーと時間』

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ここ数日片岡義男の小説『豆大福と珈琲』をバッグの中に入れ折に触れて読み続けていた。

電車の中で。喫茶店で。
旅先にも持っていって。

最後には緩やかに繋がる短編集で読みにくい本ではないのに、読み終わるまでに少し時間がかかったから、その本の表紙は少しよれている。

時間がかかったのは、一つの短編を読むと何だかすぐに次の短編に移るのが惜しくて、他の本を読んだりしていたから。
惜しいというのは、片岡義男の小説を読んでいる時間の中にある幸福感を少しでも長く引き伸ばしたいという気持ちからくる。

片岡義男の小説の中を流れている時間について、小説家の柚木麻子さんがこんな風に書いている。

「片岡氏の描く時間とは、抗うでも、支配するでも、身を委ねるしかないものでもない。時間と人は常に対等関係なのである。流動体でもないし、固形物でもない」

そして柚木さんは、片岡さんの小説の中の時間は岐阜郡上八幡の名物「水ゼリー」に似ていて、その小説の中の登場人物は「水ゼリー」の中を生きていると言い、こんな風に書く。

「彼らは未来のために準備したり、焦ったりはしない。過去もまた当たり前に手を伸ばせばあるもので、わざわざ捜しにいって慈しんだり、惜しんだりするものではないのだ。その姿勢は「生きるとは、そのときその場で必要な作業をこなすことであり、その作業をこなすのは、他の誰でもない、自分だ。自分と作業の日々を支える環境が、自分の住む家だ」という究極の現状肯定を生んでいる」

なるほど、片岡義男の小説を読んでいる時の幸福感はこの究極の現状肯定からくるのだ。

確かに片岡義男の小説の登場人物は、悩んだり怒ったり落ち込んだり反省したりせず、かといって興奮したりもせず、日々の生活を淡々と(珈琲を飲んだり、豆大福を堪能したりしながら)過ごしていていて、その平明な日常がとても好ましい。

そろそろそんな平明な気持ちで(自分にとって好きなものだけに囲まれて)愉しい穏やかな気持ちで日々を過ごしていけたらなあ、なんて思う夏の宵です。


# by maru33340 | 2019-08-13 20:35 | お勧めの本 | Trackback | Comments(3)

音楽・本・映画などについての私的な感想


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